自分らしく生きるのではなく素直に生きること

am3こんにちは、

AI-am(アイアム)の
よっぴー です。

 

子どもに素直さを求める親は多いかとおもいます。

「素直でやさしい子に育ってほしい」とかいうやつ。でもこの望みならすでに叶っているよ、というお話し。

あなたは素直な人ですか?

自分の感情や想いを正直に表現することができていますか?

批判やダメ出しなど、耳が痛い話にも「聞く耳」をもてていますか?

人からの好意をそのまま受け止めることができますか?

依存しているものに、自分の考えや気持ちを置き去りにして従っていませんか?

何歳ですか? 体重は何キロですか?

素直でいられる人。素直になれない人

素直でいられる人と、素直になれない人というのは、「どんなまなざしを受けて育ってきたか」、その生い立ちに大きく影響されるのでは、とおもっています。

 

「まなざし」は、強く人の心に関与しますね。掛け値のない無償の愛のまなざし。清らかな聖なるまなざし。

そのまなざしを子に与えつづけられるのは母親で、子はいつどんなときだって母がくれる聖なるまなざしがあれば、自己同一性の安定を得た平穏な成長をしていけるのではないでしょうか。

また、聖なるまなざしを受けることによって、家庭の外における不純なまなざしに耐えうる強さも身についていくのではないでしょうか。

 

スピッツの「チェリー」にある、「愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ」みたいなね。

それは「まなざし」ではなく「視線」

しかし現代社会において、聖なるまなざしをもらえない環境で育ってきて母になった人の場合、「聖なるまなざし」の存在を知らないばかりか、世間の価値を押しつけるまなざしを子どもに投げかけてしまいます。

ときには子どもを追いつめ、子どもの居場所を奪ってしまう場合さえあります。

 

このときの子どもへのまなざしは、無償の愛のまなざしではなく、管理の視線へと変化しています。

けれどその管理・監視の視線をしばしば母親は、「愛情」であると錯覚する。

愛され中毒

でもそれは、母親の責任だけではないです。

父親はいずこ……の家庭のなか、国が企てた競争社会や受験をはじめ、学校制度は家庭の中にも浸透しています。
子どもを「規格品にあう出来の良い子」に育てなければ……という重圧を背負った母親もまた、まなざしを奪われ喪失した被害者でしょう。

 

あるがままをあるがままに受け入れてもらえないで育つと、自分の内の根っこに恐怖心が棲み着きます。

なにか悪い結果を予想して怯えてしまい、正直に自分の気持ちを表現できないままおとなになってしまいます。

 

心では 「こうしたい!」 とおもっても、素直にそれができない。

または、過去の怒りがぶり返してきて、「でも こうすべきだ」と、素直でない言動をつい、とってしまったりもします。

直感と知識

「こうしたい!」というこころの想いは、“直感”― 魂の声

「こうするべきだ」と直感のあとから頭に指示してくるのは、“知識”― 習慣性

このふたつは常に共存してるから、素直になれないときというのは、何かから自分を守ろうとして、知識が直感と闘っているときです。

 

利用されるんじゃないか。

バカにされるんじゃないか。

相手に負けるんじゃないか。

傷つけられるんじゃないか。

本当の自分を見られてしまうんじゃないか。

見放されるんじゃないか。

愛されなくなるんじゃないか。

、、などなど、評価が生んだ根底にある恐怖心がうごめいて、自分がどう見られているのか、見られてしまうのか、気になってしかたがなくなります。

 

自分がこんなふうだったら……。誰からも愛され、誰からも批判される隙も与えないような、独断と偏見で織られた完全なる理想像を自分のなかで織り上げます。

そのイメージが崩れはしないかと不安に怯えながら理想の自分と、現実の自分が、バトルしてしまいます。

人はみな自分自身で全体的(ひとつ)のもの

プラスとマイナスがあって電流は流れているように、人はみな自分自身で全体的(ひとつ)のもの。

けれど、多くの人は、プラスと感じられることは素直に認められても、その裏側の罪には目をそらし、客観的にみようとはなかなかしません。

自分のなかにある醜いもの、その存在を許してやり、それらマイナスと感じるものに対しても一切抵抗することなく無防備でいられると、バトルはおこりません。

自分の望むとおりに動く人などいない

生まれてすぐの赤ちゃんで、「でもこの赤ちゃん、素直じゃないわあ」なんて言われるような赤ちゃんがいることを聞いたことがありません。泣きたいのに泣かないのよ、とか、お腹が減ってるのにがまんしてるのよ、とか。

でも一歳、二歳、三歳、、、と年齢があがるにつれて、素直じゃない人は増えていきます。

 

生まれつき誰もがもっている素直さ。「素直な子に育ってほしい」と願っている、その素直さ。

その素直さを、そう願っている親自身が、まわりの目や声や重圧など自分への評価を怖がって、「それではダメだ!」と視線(&言葉)で攻撃します。

おもちゃを「貸して」と言われて、「イヤ!」と言う、素直に育っているわが子に「聖なるまなざし」をおくれない。

子どもが苦しいときに「死ぬほど苦しい」と言えない親になってはいけない

わたしたちも素直さを取り上げられてきた。素直さを取り上げられてきて、わたしたち親は自分に囚われています。

だから、自分の自尊心に影響する子どもの成績(学校以外においても)には関心があるけれど、子ども自身の幸福には関心がない。

 

子どもはそんな親のいうことをきいてきました。イヤだったけどおもちゃも貸しました。(ちなみにわたしは人に本を借りるのは平気だけど、貸すのはイヤなので貸しません)

そんなわが子が今、「学校に行きたくない!!」と言っている。「お母さん、助けて!!」と(こころのなかで)叫んでいる。

 

もう! もう! もう、いいじゃないですか。「聖なるまなざし」をおくりましょうよ。素直な子を抱きしめてあげましょうよ。

「〜ねばならない」が消えたとき

子ども時代に親から言われたコトバに縛られて、自分を生きれないなんて、ごめんです。

「~ねばならない」。この発想が消えたとき、どうして今まで他の人に愛されたいなんておもってたんだろう……とおもいました。

自分さんは、自分がそのまま丸ごと愛してあげればいいんです。

 

自分のなかを「べき」にのっとられて、自分を受け入れることが障害になっていました。

素直に生きていきます。これは決心。

 

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