「親心」と「こども心」ー 自分の親と同じやり方でこどもに接するしかないのか?




am3こんにちは。

AI-am(アイアム)
星山 海琳 です。

 

よっぴーは折に触れて、「こどもは大人の経験がないから、大人の気持ちがわからなくても不思議じゃないけど、大人はみんなこどもの経験があるんだから、自分がこどもだったときの気持ちが大人にはわかるはず」と言います。

個人差はあれ、大まかに共通した「親心」があるように、「こども心」もある。それを感覚的に持ち続けるには、縦ではなく横に時間を連ね、これまでのすべての時点の自分と同居していること。

それが「自分が育った家庭環境・親の教育観とは異なる教育観で、いまこどもと接していく」ことの柱にもなる、という話を、二人でしていました。



大人なら誰でもこどもの経験を持っている

よっぴーは折に触れて、「こどもは大人の経験がないから、大人の気持ちがわからなくても不思議じゃないけど、大人はみんなこどもの経験があるんだから、自分がこどもだったときの気持ちが大人にはわかるはず」と言います。

赤ちゃん時代ならともかく、子ども時代のことならば、ほとんど誰でも記憶が残っているはず、と確かに思う。

個人差はもちろんありますが、「親心」という大まかな型があるように、大まかな「こども心」もある。(信憑性の程度はともかく)こどもの心理を解説する育児書や子育て本は、本屋さんの棚にずらりと並んでいるわけですし。

 

こどもと大人、10代と20代、独身と既婚etc

人の一生は連続しています。コンマの時間が連なって、ひと続きの人生になる。
幼児、児童、少年少女、青年、成人、中年、老人……などと区切るのは法制度の便宜上や、学問的な区別などであって、わたしという人間に、それらの線がくっきりと引かれているわけではありません

そんなのは当然、と考えつつ、わたしたちは明確に線を引きます。こどもと大人、低学年と高学年、未成年と成年、10代と20代、独身と既婚、etc、etc。
利便性を求めるのはいいことだし、社会には公平な基準が必要です。けれどわたしたちは、そこに引かれた線が、本当に「ある」ように錯覚しがちじゃないですか。

錯覚するとどうなるかというと、さっきまでいたのはもう「向こう」で、わたしにとっては「あちら」のこと、今わたしはここにいて、「そちら」にはいない、わたしは「こちら」から「そちら」を見る、と、妙な境界線を引くはめになります。

わたしはもう「そちら」の人間ではないので、「そちら」のことは人生の1ページとしてアルバムに貼り、閉じる。

 

縦に積み上げる時間、横に連ねる時間

もちろんわたしたちは齢をとるし、世の中はそれほど変わっていなくても、わたし自身は変わっていきます。

10代も後半になって、それまでは見えなかった「こども」の存在が見えはじめたりするように、見えるもの、聞こえるもの、わかるもの、みるみる変化していく。
でも、7歳に「戻る」ことのできないわたしたちは、だからといって7歳だった自分から遠く切り離されているのでもないのです。

時間は連なるもの、それは縦に、あるいは横に? どちらにでも。

 

よっぴーはよく「よっぴーさんの親は、今のよっぴーさんのような教育観を持っていたわけではないのに、どうしてそんなふうにこどもと接することができるのか」、と尋ねられます。

そういった質問を受けて、わたしたちふたりの間でもしばしば考えてみるのだけど、よっぴーは未だに「そんなんわからんわあ」と言います(世の中には「そういうもの」という結論でしか方をつけられない物事があって、これもその一つじゃなかろうかとわたしは思う、のだけど、それが正解とも言い切りません)。

正解はわからないけれども、よっぴーの生きてきた時間が、横に広がっていることは確かです。

 

「こども心」に添うのは、あくまで感覚的に

人生が進むにつれてさまざまに引いた線、区別、その境界線は、これまでの自分と、今の自分(あと多少のこれからの自分)とを、切り分けてしまうものです。それだけに留まらず、時間を縦に積み上げてしまう

高校生(年齢)になったら中学生(年齢)の自分をばかにしたり、
大学生になったら高校生を見て「若いなあ」と笑ったり、
20代に入ったら10代を軽々しく美化したり、
結婚したら独身生活を気楽なものと皮肉ったり、
大人になってこどもの未熟さや拙さを「あるある」として扱ったり、
逆に優れたこどもを前にすれば「自分がその歳のころなんてなんにも考えてなかったのにねえ」と言ったり、
そういうことをわたしたちはやりがちなんですが、それらはすべて、時間を縦に積み上げてきた結果のように思うんです。

積み上げた塔のてっぺんから7歳の自分を見下ろしていたら、見えるのはその頭部であって、「こども心」と呼ばれるようなものではないんですよね。ひと続きであるはずの自分に対してさえ見えなければ、他者であるこどもたちの「こども心」に添うなんて、ほど遠いこと。

でも、円を描くように時間を連ねられたら、7歳のとき、14歳のとき、19歳のとき、25歳のとき、31歳のとき、38歳のとき、44歳のとき、……あらゆる時点の自分と同居していられます。そうしたら(自分の親ではなく)自分が、いま親であるわたしの指針になりますもんね。

 

自分と同居しているということ

こどもは親を追い越して齢を取ることはありません。

他者であるこどもは決して自分と同じではないし、そのことは常に留意していないといけないけれど、「こども心」という意味では、こどもはいつも自分がかつて経験した地点を通っていきます。
横に、というかむしろ円形に、ワンルームに散らばるように、これまでの自分がいたら、自分を見ればたいていのことはわかりますよね。

たとえば海外へ旅行すると、地元に帰っていつもの暮らしをしている中でも、ふいに「あの街の晴れた日の気候」を彷彿としたり、「あのお店で買ったパンの味」が口の中に舞い戻ってきたりする、あんな感覚に似ているかも、と二人で話していました。「実家のにおい」も同じ? あのとき聞いた音、あのとき嗅いだ匂い。

それは「参考にする」とか「共感する」、ようするに「こどもの気持ちになって考えてみる」とか「自分のこども時代を思い出してみる」、「こどもの世界を尊重する」といった縦軸の視点とはぜんぜん違うんですよね。

親はまるでわたしを見ていないと感じた自分と、海外の街で寝起きしてパンを食べた自分と、目の前のこどもの親でもある現在の自分とのあいだに境界線はなく、遠く離れてもいない、ひと続きのおんなじ人間である、と。

自分の親と同じやり方でこどもと接することしかできないのか?

ちなみに、「よっぴーさんの親は、今のよっぴーさんのような教育観を持っていたわけではないのに、どうしてそんなふうにこどもと接することができるのか」という疑問をひっくり返すと、「自分の親は”そう”じゃなかったから”こう”なんだ」という思いがあるように感じます。

親からの影響は確実にあるし、その数や深さは本当にはかりしれないけれど、親と同じじゃない部分もわたしたちには山ほどあって、よくよく考えれば同じ部分のほうが少ないくらいです。なにもかも親と同じように考えたり行動したり、してないですもんね。誰も。

幼児期を過ぎて大人になっていく過程には、友人、知人、恋人、同僚や上司に仕事相手、いろんなこどもにいろんな大人、多種多様の本や映画、音楽、多くの人から影響を受ける機会があふれています。
幼いこどもにとっては親、家族が世界の大部分ですけど、自分が親の立場になった今でも、かつて親から受け取ったものだけが自分の世界を作っているすべて、なんてことはないはず(虐待やひどい呪い、トラウマなどはまた別の問題として)。

それでもなお、親になって、自分の理想どおりでない言動をこどもに向けてしまって嫌な気持ちになるとき、それは実際に「親がわたしにそうしていたから」ではなく(もちろん影響はあるはずですが)自分の嫌なところが親の行いと似ているので、ここは親に背負わせておく、という節もあるんじゃないか、と感じます。

親の接し方が原因で今日まで引きずってしまうことはいくらでもあって、けれどそうじゃないことも、いくらでもあるはずだと思うんです。人はみんな違うけど、「親心」や「こども心」のように、だいたい似通っているものでもあるし。

負荷を避ける手段として親を利用するのも、それはそれでいい方法だけれど、だからといって「”そう”じゃない親に育てられたのに”そう”なるのは特別なこと」と考えるのは失礼かもな、ということも頭に入れておきたいな、と思うところです。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

1996年生まれ、25歳。小・中・高へ通わず、デモクラティックスクールで育ち、一切の勉強もしてきませんでした。 17歳のとき、2ヶ月半で高卒認定試験に合格し、現役で大学へ入学。