子どもが親を呼んだとき、どうして返事をしないといけないのか? そのとき育っているもの

amam
こんにちは、

AI-am(アイアム)のよっぴー、まりんです。

 

スーパーなどで、小さなこどもが、離れたところにいる母親を「ママ、ママー」と呼ぶ。

こんなときは、1回目の「ママー」に、「はーい」って答えてあげてほしいなって願うのだけど、子どもに呼ばれたらどうして返事をしないといけないのか?

そのとき育っているものはなにか? について書いています。

 

子どもに呼ばれたら返事をする!

このあいだスーパーで買いものをしていたら、お菓子売り場で、小さなこどもが「ママ、ママー」と、離れたところにいるらしい母親を呼んでいました。

1回目は、屈託なく「ママー」と呼ぶ。このスーパーのどこか、そのあたりにいるんだろうという安心感のある、おだやかな音色です。

 

そのママの返事は聞こえなかった。

こどもは、2回目もおなじように、疑いもなく、「ママー」と呼びます。

 

それでもママの返事はなく、ふたたびこどもが「ママー」と呼ぶ、その音色は1回目とは変わっていました。そこには少しだけ苛立ちが含まれていて、でもやっぱりママからの返事はない。

4回目、5回目…こどもの呼び声は、もはや怒りではなく、明らかに不安を含んでいます

 

こういった光景ってよくありますよね。

わたしたちもはじめてじゃないし、みんなも見たことがあると思う。実際にこうやって、こどもに呼ばれた経験もあると思います。

こんなときは必ず(という意識で)1回目の「ママー」に、「はーい」って答えてあげてほしい。

 

「名前を呼んだら来てくれる」安心と希望

たとえば親は、こどもがお菓子を買って欲しがるとき、こんな身体に悪そうなものを買い与えていいのかとか、買い与えることに対してもっと厳しいほうがいいんじゃないかとか、こどもに与える害 についてよく考えます。

でも、「いまこどもが自分を呼んだのに、1回目で返事をしなかったこと」に対する有害性 は、あまり認識していません。

 

「名前を呼んだら来てくれる」「名前を呼んだら返事がある

これってどれほどの 安心 だろうか?

どれほどの 希望 だろうか?

 

この経験(の積み重ね)は、人が健やかに生きていくにおいて基本中の基本の「安心」を築きます。

声にした希望が、望んだとおりに叶うこの経験は(多ければ多いほど)(親)を「信じる」ということの本質を実感させます(そしてそれは、自分自身を信じる力をゆがめません)。

 

「安心」のベースがあるからこそ、こどもは自分で自分の足場をつくっていったり、人生を建設的に考えたり、冒険していく、好奇心にそった「学ぶ」をしていくことができる。

 

その基本中の基本がなかったら、足場をつくったり、新しいことに向かっていく力の根っこに、つねに「恐怖」が棲んでしまいます。

怖くて動き出せなかったり、誰かの評価を欲したりして、生きることに臆病さを与えてしまう。

 

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「子育て」とは、ふたりで育ちあうこと

こっちはさっさと買いものをしたいのに、手がかかってうっとおしいとか、めんどくさいとか、恥ずかしいとかいうけれど、こどもに呼ばれたら返事をする!

めーーーいっぱい、手をかけたらいいんだもん。

「なにー?」じゃなくて、「はいはい」でもなく、「はーい」と返事をする。

こうやって文字にすれば、人と人の関わりにおいて当たり前のことなんですよね。

 

公共の場で、こどもが大声で親を呼んだとき、離れたところから返ってくる「はーい」ほど、はたから聞いていて、やわらかな気持ちになるものはありません。

ふたりが、ふたりで育ちあいをしているなあ、っておもう。

子育てってこういうこと! が、「ママ」「はーい」のやりとりに詰まっています。

 

それに、この子育ての芯ともいえる「ママー」「はーい」のやりとりが、のちのヨコの関係になっていくんです。

子育てっていうのは、ふたりで育ちあうこと。おなじ円のうえで、ともに泣いたり笑ったりすることだから。

 

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