こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山 海琳 です。
子どもが学校に行かなくなることで、社交性や社会性、コミュニケーション能力を心配するひとは多いけど、あれはたいていの場合、ほんとうの悩みや心配ではないと思う。
心の底から子どもの能力について心配しているわけじゃなくて、それらしい理由を探してるだけだったりするんですよ。
まず「社交性」と「社会性」と「コミュニケーション能力」は分けて考えるべきだし(違うものだから)、心配をするならば、それぞれの定義を自分なりに鮮明なものにしなければはじまらない。
社交性がなく社会性のあるひと、は存在する
たとえば社交性の要は「交」であって、交わりとか交流を指しているけれども、社会性は必ずしもそうではない。
社会性はよく集団行動、集団生活ができることと扱われたりするけれども、ひとことも発さなくても、視線が交わらなくても、物理的な触れあいがなくても、社会性のあるひとはいる、と思う。
昨年、雪の積もる12月のキエフで、借りていたアパートのグラウンドフロアにあたるところに一日中座りこんで、寒さをしのいでいる老人がいた。
彼はそこで誰かと話をするわけではないし、アパートを出入りする人に視線を向けるでもなく、なにかを求めることもない。ただ、「外よりは寒くなく」「居座りやすいところ」にいるだけ。
社交を「しなかった」あの老人に社交性があるかどうかはわからないけれども、彼には社会性が「ない」、と言えるだろうか?
わたしは社会性というやつを、他人とニコニコ会話ができることでも、気まずくならないことでもなく、(形を問わず)社会で生きてゆける力のことだと思う。
コミュニケーション能力にしても、ひとつのはっきりとした定義はないし、実際のところコミュニケーションの方法はいくつもあって、会話「だけ」がコミュニケーションを指すわけじゃない。会話にも種類があるわけだし。
「定義はなにか」はさしたることではなく、「定義をもっていること」、あるいは「考えていること」に光がある。
こういう定義をはっきりとさせずに、わたしたちはスタート地点にも立たないままモヤモヤと悩み続けて、よそに問題を押しつけてゆく。
登校/不登校は、万能なものさしにはならない
とある定義において、社交性のないひと、社会性のないひと、コミュニケーション能力が劣っているひと、というものが存在する、と、して。
そういうひとが学校へ行っていないというとき、すべての場合においてそれが学校へ行かないことと結びついているかどうかは、実際、判断のしようがない。
同じ学校へ、同じように通っているひとたちのなかでも、あらゆる能力には違いがある。
学校に通わないひとたち、つまり過ごし方や環境のパターンにさらに幅があるひとたちの能力にも違いがあるのが当然で、それって結局は「人による」ってことであり、登校/不登校だけがその違いをコントロールすることができる、わけがない。
たとえば「コミュ障」と呼ばれる、あるいは自称するひとたちの多くは学校に行っていたわけだし、(本人が学校についてどう思って、感じているかも考慮せず)学校に行くこと、行かないことだけで人間の性格や力を測るには、あまりにも足りない。
もちろん学校には大きな影響力があるし、画一的で、工場的で、ひとを生かしたり殺したりもするけれども、(何事においても)すべてを0か100か、白か黒かで考えていくには、無理がある。ましてや、人間のことだし。
子どもはなにを見て、育っていく?
役割よりも誠実さを
仮に軌道を変えるならば、それはやっぱり学校に行かない/行きたくない子どもではなく、学校に行かないことについて「それらしい理由を探している」大人のほうだと思う。
表面上の寛容で、心底で恐れていることや許せないものを露わにすることを避けて、ありがちであいまいな問題を、正当っぽく話題にあげようとする。
大人はそれでもいいけれども、「ふり」だけの心配を受けてちっとも通じあえない子どもはどうすればいいだろう。
わたしたちにできることは、さっさと自律して自立することくらいしかない。
親が親だからという理由で、子どものために感性や価値観をねじ曲げることはないと思うけれども、心配をするだけの愛情や責任感、自認する役割があるならば、それらすべてのかわりに、誠実になってもいいんじゃないかとも思う。
誠実さによってあらわれたものを好きになるか嫌いになるかはわからないけれども、親子は親子であることに違いないし、他人であることにも違いない。
理解や共感をされないことよりも、自分と親はわかりあえないと感じることよりも、できない理解や共感をしている「ふり」をされているほうが、いやだよな。