こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山まりん です。
「責任感」ってなんだろうか。
責任感があるから責任をとれるってわけじゃありません。
責任をとるなら責任感なんて必要ないのに、なぜみんな責任「感」ばかりを求めるんだろう?
責任感っていうか、そもそも責任ってなに?
「責任感」ってなんだろか、と思った。
「責任感のある子に育ってほしい」とか、「責任感をもって」とか、よく聞きます。
じゃそもそも責任ってなにかというと、こう書いてある。
責任
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての責任がある」「責任を果たす」
(デジタル大辞林)
「自己肯定感」もそうだけど、「感」がつくと突然なんだかよくわからなくなる言葉というのは、けっこうある。
なんとなくごまかされているような気になる言葉や、流行る言葉や。
責任感なんてなくてもいい
「責任感のある人間」と「責任をとる人間」(あるいは「責任がとれる人間」)は、似ているようでちがう。
サドベリースクール(デモクラティックスクール)や、その教育を取り入れた子育てでも、「自由と責任」ということばがよく使われるけれど、ここでいう「責任」は、後者をさしています。
責任感があったって責任をとれなければどうしようもないし、責任をとるなら責任感なんてまったく必要ない。
むしろ、責任感だけで動かれると逆に迷惑になる、みたいなことってあると思う。だってそういうのは、ほとんど自己満足だし。
でもみんな、「責任感」を要求している。
なぜだろう?
「感」がつくとことばは不透明になる
「感」がつくと突然なんだかよくわからなくなる言葉。
流行り言葉っていうのは得てしてそういうもので、あやふやで「よくわかんない」からこそ流行る。
「責任」も「自己肯定」も、それってなんだろうかと、自分なりに、そのことばの輪郭や構成を見つけることがわたしは好きだし、そういう行為をするひとが好きだし、好みがどうこうではなく、ホント大事なことなんじゃないかと思ったりもします。
でも「感」とか「的」とかいった言葉がオプションみたいに使われるとき、そんな行為に辿りつきづらくして、ことばを不透明にする。
それぞれに解釈が異なるようなむずかしいことばも、いちど聞いてわかったような、知っているような、そんな気になる。
で、「責任」は不透明なビニール袋に入った状態で手渡されて、人びとのあいだを回って流行って、いずれ廃るときにはみんな「責任がとれる人間」になっているかというと当然そんなことはない、ということになります。
もちろん、流行りなんてそんなものですけど、流行りは流行りとして乗っかるくらいの主体性はもっていたいな、と思う。
「自由と責任」って、誰のはなし?
ちょっと余談。
「自由と責任」という言葉について。
これは、いまとなってはもう自己満足のための言葉だな、とこのごろ感じます(少なくとも、明確化して強要するようなものじゃなく、言葉にせず育むようなものじゃないかな、と思う)。
たとえば子どもがなにかを選ぶときに、なんとなくこの「自由と責任」というやつを持ち出して、「かわりに」と条件をつけたり、なにがあっても自分で尻拭いをしろ、みたいなことを強要する家庭もわりと多くあるみたいなんですが、あれってなんか言葉に乗っ取られているみたいで、好きじゃない。
親子っていうのは、人間どうしという点で対等でありながら、利害とか善悪とか、感情とかを一切抜きにして、相手に甘えたり頼ったりすることができる、唯一の存在だと、わたしは思っています。
だからこそ、相手じゃなく、自分に責任を求めていたい。自由だって、じぶんのものだし。