信頼は「する」ものじゃなく「ある」もの

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こんにちは、

AI-am(アイアム)
星山まりん です。

 

子どもを信頼する、という言葉。

よく知りもしない相手ならともかく、自分の子どもに対して、「信頼する」というのは違和感があります。
信頼は、親子のあいだにずっと「ある」ものではないんでしょうか?

 

「子どもを信頼する」

親が子どもを信頼する、といった言葉にとても違和感があります。

もちろん、かんたんな文面では「信頼」という言葉を使うのがわかりやすいかもしれません。

わたしたちも本で使ったりもしたし(『小さな天才の育て方・育ち方-小・中・高に通わず大学へ行った話』)、でもあまりに乱用されているのをみると、なんかヘンだなと思えてくる。

 

「信じる」「待つ」という行為のわざとらしさ

わたしは母親から信頼していると言われたことはないし、ついぞ会話にでてきたこともありません。
これは、「待つ」にも似ています。

子どもを信じること、待つことが大事、というのは確かです。

でも、「待っている」と親に示されると、急かされているのと大して変わらない。

「信じている」というのも、ちょっと。ほっといてくれ、という感じになる。

 

ほんとに信じているなら、信頼がそこにあるなら、あらたまって信じたりしなくていいし、わざわざ信じているなんて(子どもへも、ほかの誰かへも)言わなくてもいい。

疑いがほんのちょっとでも存在しているから、「信じる」ってことばが出てくるのかな、と思えます。信じたいから。

親と子どものあいだに必要なのは信頼行為じゃなくて、信頼関係です

夏は暑い、冬は寒い、そんなのはほとんど誰もが、言葉にする必要もないくらい信じている。赤の他人同士ならむずかしくても、親子や家族って、そんなのができるものじゃないんでしょうか。

 

信じることと評価すること

「どうすれば子どもを信じられるか」は、とても行為的です。

それっていうのは、同時に、子ども自身ではなく、子どもの行為ばかりをみているような気がします。
いい評価をしてもらうためにやっているわけじゃないこと(大人とちがって)。

 

大人目線のわるいことをすれば信じてもらえない、いいことをすれば信じてもらえる、なんて窮屈な関係のなかでは子どもがのびのびと過ごせないことくらい、すぐにわかります。

でも、それってある意味、すごくシンプルなことです。

スーパーやコンビニで見かけた、よく知らない誰かになら「行為」になるのはしょうがないことでも、自分の子どもくらい、行為なんて表面上のことでなく、そのひと自身を好きでいられたら。

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