こんにちは、AI-am(アイアム)の星山まりんです。
日ごとに、学校へ行かない・行きたくない子どもが増えて、自由登校とか、サドベリースクールをはじめとして、オルタナティブ教育が広がりつつありますね。
依然としてマイノリティではありますが、「こんな教育が・こんな考えのひとたちが、増えたらいいね」ということをよく耳にします。それは、なぜでしょうか。
もくじ
広がりつづける、不登校やオルタナティブの波紋
わたしが学校へ行かなくなったころ(15年前くらいかな。あっという間です)と比較しても、不登校の子どもの数は圧倒的に多くなりました。
調査できているだけで13万人以上(しかも小中学生のみ)ということは、それよりもはるかに多くの子どもたちが、学校に行かなかったり、行けなかったり、行ったり行かなかったりしているわけです。
年々、数が増えていくことに比例して、ご近所さんやクラス内、学校内でそういった子どもたちを見かけることも、それほどめずらしくはなくなっていくはずです。
少なくとも、「不登校」という言葉はもうしっかり世間に浸透したような感じがしますね。
学校に「行けない」のではなく「行かない」・行きたいときにだけ行くといった選択、あるいはホームスクーリングだったり、サドベリーやシュタイナー、さまざまなオルタナティブ教育にも、波紋はひろがっていきます。
あたらしい価値観=マイノリティ
あたらしい価値観を得た自分と、そうでない、従来の世界にいるひとたち。
従来の世界との関係性は切り離せないものらしく(もちろん切り離す必要があるわけでもありませんが)、いつもそちらのことが気にかかる。
学校に行かないこと、オルタナティブ教育。
数だけの話をするなら、どちらも依然としてマイノリティです。
大多数の子どもたちは、違和感があるにせよないにせよ学校へ行くし、勉強をするし、就職だってします。
それがマジョリティ。
「あたらしい価値観を得た自分」は、今となってはマイノリティな世界にいる。
けれど、そのうちのほとんど誰もがウン十年暮らしてきたのは、マジョリティの世界です。
それで、不安がつきまとう。
マジョリティの生きやすさ
「こんな教育が、こんな考えのひとたちが増えたらいいね」と言う。
それはなぜでしょう?
わたしにも、この気持ちがないわけではありません。
子どもが、ニュートラルなきもちで、それらを選びやすくなるから。
そもそもの地点からずれた、ある意味むだな不安が、つきまといにくくなるからです。
大人はともかく子どもに、わざわざそんな不安を与える必要はありません。
けれど、「こんなのが増えたらいいね」という言葉の中身は、こればかりでもないように思います。
ほんとうに、どこを見渡しても、どこを切り取っても子どものためなのではなく、そういう考えが広まったら、自分たちが生きやすくなる(と感じている)んじゃないかと、そう思う。
ずっと、マジョリティの世界にいて慣れていたら、ちっとも不思議なことではありません。
それが良いとか悪いとか、そういうことではなくて。
「わかってもらえること」「理解してもらえること」がすべての基準?
親類やご近所さん、学校関係者のひとたち。
関わるひとたちが、理解をもつようになる。
そうしたら生きやすくなる。
だとしたら、それはどうしてだろう。
他人に理解されることが、どうして生きやすさにつながるんでしょう。
「いちいち説明をしなくてすむから楽」みたいなのは、たしかにあるかもしれない。
でも、説明をしなきゃならないのは、わかってもらわないと困るからかもしれない。
自分が。
ほんとうに説明しなきゃならない相手なんて、なおかつわかってもらわないといけない、理解してもらわないといけない相手なんて、いるだろうか。
「わかってもらうこと」「理解してもらうこと」がすべての基準になるなら、その考えとか気持ちはいったい誰のもので、誰のためにあるものなんだろう。
マジョリティもマイノリティも、そのなかでいくつもの細かな分類ができる。
大枠ではおなじところに立っていても、ほんとうに理解しあえるひとなんて、そういません。
それは悲しいことじゃなくて、人間の自然なすがたというか、そんな気がします。
もちろん、「わかってもらうこと」、「わかりあうこと」は、うれしい。
これもまた、人間の自然なすがたというふうに思います。
通じあったら、うれしい。
誰とでもできることじゃないからこそ、とてもうれしいんだと思う。
今日の本
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