旧ユーゴスラビア連邦国の解体過程で起きた戦い「ユーゴスラビア紛争」に、2000年ごろから関心をもちました。
以降、書籍や論文、記事を読んだり、映画を観たりして、2007年には実際に旧ユーゴスラビア連邦の国々、町々を巡ってきたりもしました。けれどもその時は、いちばん行きたかったコソボは暴動など不安定化が懸念されていたので断念。
時を経て、2019年6月。NATO軍の空爆行為による介入20周年を祝う式典がコソボで行われたことを知り、「どういうこっちゃ?」「なんでやねん?」の思いから、コソボに行ってみたい! が再燃し、同年12月、やっとコソボにも行ってきました。
そんな、関心歴だけは長いわたしから見て、ユーゴスラビア紛争において狂気的だとおもうことが3点あり、今回『ユーゴスラビア紛争における狂気』としてまとめました。
この記事では次の ① について書いています。
① 新しく台頭した民族主義者(ナショナリスト)の政治家たちが、領土拡大・領土分割による利権欲しさに生んだ「ジェノサイド(集団殺害)」。「民族主義」を煽りに煽って、隣人殺し、きょうだい殺しをさせた、その凄惨なやり方
② アメリカの広告代理店が ① の狂気をさらに煽る「民族浄化」(ethnic cleansing)を作ったこと
③ アメリカ主導による「NATO空爆」の正義という不正義
これら3点の背景のうち、この記事では、① の
- 政治家たちが己の欲のために市民をどう操り、支配し、利用していくのか(わたしたちはどう翻弄されるのか、戦争に巻き込まれていくのか、その過程)
- ボスニア紛争の狂気
- 民族浄化の狂気
について書いています。
ユーゴスラビア紛争における狂気
「旧ユーゴスラビア誕生から崩壊、紛争までの概略(1)」
旧ユーゴスラビア連邦の各共和国・各民族間の対立や混乱を抑えたヨシップ・ブロズ・チトー大統領のこと、チトーの死後にユーゴスラビア紛争がはじまるまでの概略
「コソボ紛争へのNATO空爆の実態とアメリカの正義(3)」
② と ③ のアメリカ広告代理店による「民族浄化」(ethnic cleansing)の形成、NATO空爆の正義という不正義について
もくじ
はじめに・簡単な見直し
旧ユーゴスラビアってどこにあるの?
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(以下、ユーゴ、ユーゴスラビアなど略)は、アドリア海をはさんだイタリアの東向かいにありました。ギリシャの上、中欧・東欧にかこまれたバルカン半島に位置します。
旧ユーゴスラビア連邦国ってどの国々?
1991年、分裂がはじまるまでのユーゴスラビア連邦共和国は、6つの国と2つの自治州から構成されていました。
下の地図のように、
北から、
- スロベニア社会主義共和国(現・スロベニア共和国)
- クロアチア社会主義共和国(現・クロアチア共和国)
- ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国(現・ボスニア・ヘルツェゴビナ)
- セルビア社会主義共和国(現・セルビア共和国)
- モンテネグロ社会主義共和国(現・モンテネグロ)
- マケドニア社会主義共和国(現・北マケドニア共和国)
これら6つの共和国と、セルビア社会主義共和国内に置いた2つの自治州、
- ヴォイヴォディナ社会主義自治州(セルビア共和国内)
- コソボ社会主義自治州(現・コソボ共和国)
で構成されていました。
現在のコソボ共和国の承認について
コソボは2008年に独立しますが、2023年11月時点において、193の国連加盟国のうち80カ国がコソボを独立承認国ではないとして拒否しています(セルビアをはじめ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ロシア、ウクライナ、スペイン、中国など)。一方、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、日本など113カ国からは独立承認を受けています。
将来的に国際社会から一致した承認を得られるかどうかは未だ不透明な状況です。国連安全保障理事会の承認が出ず、国連に加盟できていないなど国際的な問題が残っており、コソボの独立を承認していない国々は、コソボを国連の管理下にあるセルビアの一部として取り扱っています。
ユーゴスラビア紛争ってなに?
ユーゴスラビア紛争は、ユーゴスラビア連邦国の解体の過程で起こった戦争です。
独立にともなった紛争は数多くの犠牲者を出しながら、以下のように、1991年から2001年まで10年にわたって続きました。
- スロベニア紛争(十日間戦争)(1991年)
- クロアチア紛争(1991年 – 1995年)
- ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア紛争)(1992年 – 1995年)
- コソボ紛争(1996年 – 1999年)
- マケドニア紛争(2001年)
なぜユーゴスラビア紛争は起こったの?
ユーゴスラビア紛争にいたるまでには、以下のような流れがあります。
1980年
チトーが逝去。経済危機が深刻するなか、カリスマ指導者・チトーに頼った国家の脆弱さは共和国・民族間対立を顕在化するとともに、社会主義が世界的に凋落していく。
1989年
ベルリンの壁崩壊にはじまる、米ソ冷戦の終結。ユーゴスラビア連邦の求心力は急速に衰える。
1991年
ソビエト連邦も崩壊。最前線国家として非同盟陣営をとっていたユーゴスラビア連邦は、アメリカやソ連から身を守るための連邦国を形成しておく必要がなくなる。
チトーを失った後、経済危機と合わさって政治的・社会的危機に直面したユーゴスラビア連邦。
もともと経済的に豊かでありながら「南北格差」が足かせとなっていたスロベニアとクロアチアの2共和国が、今とばかりに分離・独立に走ります。※ユーゴ連邦の経済は、独立前までは各共和国の協力で成り立っていました。
経済・政治・社会の不安情勢が民族主義を助長し、政権を握った民族主義者たちが、各共和国で民族主義(ナショナリズム)を脅威に煽って強めていきます。
こうした結果、民族対立による凄惨な内戦がはじまっていくのですが、1991年にスロベニアとクロアチアの2共和国の独立承認を早急に下したドイツをはじめ、EC諸国ならびに米国が、政治経済への下心をもって民族紛争(ユーゴ危機)を利用したことで、問題の解決はおろか、逆に泥沼化した戦争となりました。
千田善さん(国際ジャーナリスト、政治学者、通訳・翻訳者。元サッカー日本代表監督イビチャ・オシムの通訳も務めた)の『ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇 』で、わかりやすい例えが書かれています。
国際社会の和平努力は成功していない。そればかりか、時として戦争の火に油を注ぐ結果を生んできた。
千田善『ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇 (講談社現代新書)』pp.232-233
ECやアメリカは、紛争の初期には「ユーゴ統一維持」の立場からアプローチし、それがうまくいかないとみるや、翌年にはスロベニア、クロアチアばかりか、ボスニアの独立まで承認するという、一貫しない対応をとった。重体の患者(旧ユーゴ)を前に、頭を冷やし、胃薬と栄養剤を飲めば治ると言っていた医者(EC)が突然、手足の切断手術をする、と言い出したのに等しい。
以上、『旧ユーゴスラビア誕生から崩壊、紛争までの概略(1)』からの簡単な見直しでした。ここから続編となります。
ユーゴスラビア紛争は「民族主義」(ナショナリズム)を煽って作られた
民族主義政治家たちの謀略
ユーゴスラビア連邦の各共和国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニア)が分離独立(解体)していくのは、時代の流れでもあったでしょう。ここに驚きはありません。
独立していく際にちょっとしたいざこざが起きても、うわぁっとは思うけれど、それにも驚きはありません。嫌だけどよくあること。親が亡くなったって遺産争いが起こることがありますもんね。
争いが起こること自体には驚かないけれど、紛争の背景を知り、なんでそうなるの? そんなんあんまりやん、とわたしがおもうのは、自分たち民族の勢力圏を拡大したいがための陣取り合戦に、民間人を利用して、隣人殺し、きょうだい殺しをさせた政治家たち・指導者たちに対してです。
どういう背景かというと、1990年に旧ユーゴで行われた選挙において、経済危機から、 各共和国の政治家たちは選挙に勝つために「民族主義」を権勢拡大の道具として採用 しました。結果、各共和国の民族主義政党が軒並み勝利を収め、 民族主義者の政治家たちが権力を手に入れたのです。
1990年の自由選挙の際、当時は「経済を立て直します」なんて演説しても、誰も信じる状況ではなかった。そこで、わかりやすい政策として民族主義(我が民族のためにがんばります、自分たちが貧乏なのはあいつらのせいです)が公約になった。
ヤスミンコ・ハリロビッチ編著『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992-1995』pp.25-26
『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992-1995』は千田善さんが監修をつとめられている本で、千田さんご本人も本書内で解説「ユーゴスラビア紛争について ー なぜ戦争になったのか」「サラエボ包囲戦 ー なぜ逃げられなかったのか」を書かれています。本書の紹介は下記。
新しく台頭した民族主義者の政治家たちは、利権欲しさに、領土欲しさに、ユーゴスラビア連邦から独立する自国の政権の座を強化するため、次の① ② ③の手順で謀略をめぐらせていきます。
① 治安を悪化させる
まずは 無法者(※民兵集団) を野に放って治安を悪化させていきます。
この無法者たちは、頭領の名前をとって「アルカン部隊」、「シェシェイ部隊」などと呼ばれたり、白い鷲や狼のシンボルをつけていたために「ホワイト・イーグル」、「ウルフ」などと呼ばれたりする民兵集団である。民兵集団は、前科者やホームレスなどからひそかに募集された。例えば、「アルカン部隊」の頭領アルカンは、銀行強盗や殺人などの犯人としてヨーロッパ数カ国で指名手配中であった。
多谷千香子『「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』pp.76-77
※民兵集団…ボスニア内戦の残虐行為のほとんどは、民兵集団によるもので、国連の報告書によると、最も頻繁に報告された違反行為は、市民の殺害、拷問、強姦、財産の破壊、略奪だったそうです。
民兵集団には、武装警察部隊、地域住民から編成された市民軍、特殊部隊、それ以外の集団(セルビア人側の「アルカン部隊」、クロアチア人側の「クロアチア人防衛軍」、ボスニア人側の「グリーン・ベレー」など、上↑で言うところの無法者)があり、ほとんどすべての民兵は義勇兵で「法の向こう側」の人々でした。
② 民衆の不安を煽る
次に、積極的に社会不安を作り出して、民衆の不安を煽ることに血道をあげていきます。
(…)他民族が集団殺害を計画しているという嘘の宣伝をして、あたかも身に危険が差し迫っているかのような「現在の不安」を強調したり、他民族に天下をとられて二級市民の悲哀をなめることになるかもしれないという「将来の不安」を煽ることであった。
多谷千香子『「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』はしがきⅲ
↓たとえば、こんなふうに(セルビアでの一例)。
※「SDS」はセルビア民主党のこと
第二次世界大戦中の出来事は、チトーによって固く封印されていたが、一九九一年秋以降、第二次世界大戦中の血で血を洗う残虐行為の数々が、マスメディアに頻繁に登場するようになり、セルビア民族主義的な歌が流されるようになった。
まず、クロアチア紛争が始まると間もなく、SDSは、「ウルフ」と称する無法者の民兵集団を使って、コザラ山にある大きな電波中継基地を占領し、ベオグラードからの放送しか受信できないようにした。そして、「モスリム人やクロアチア人は、過激な民族主義者であり、ボスニアを我が物にするために、セルビア人のジェノサイドを企てている」などと宣伝しはじめ、クロアチア戦線で殺された兵士の死体がテレビ画面に写し出されるようになった。死体の一部は、ウジがわいていたり、頭や手足が切断されたもので、セルビア人兵士がいかに残酷な方法で殺されたかが解説された。そのような画面の一部は、アフガニスタンで撮った写真など、クロアチア紛争とは関係のないものまで含まれていたという。
また、他のSDS指導者は、第二次世界大戦中、ウスターシャに殺されたセルビア人の集団墓地で、ジェノサイド五十周年記念行事を行い、ある証人によれば、「今日のユーゴがあるのは、ファシストと戦い、多くのセルビア人が犠牲になったおかげだ」などと演説したりしたという。ブルダニンらは、過去の恐怖を呼び起こし、民族の防衛に名を借りて、他民族に対する攻撃を煽っていったのである。
多谷千香子『「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』pp.68-69
それまで各民族が混住してごくごく普通に暮らしていた町や村に、①無法者を放ち、治安を悪化させ、②積極的に社会不安を作り出して、民衆意識を煽る……。
③ 攻撃を正当化する
そして、(再びセルビアでの一例を用いると)セルビアでは、セルビア人が攻撃するのを正当化するために、次のような宣伝が、テレビやラジオを通じて流されます。新聞にも堂々と載ります。
「親愛なるセルビア人の皆様。あなた方は、血に飢えた敵どもが、これからしようとしていることを知っていますか? ウスターシャが計画していることは、セルビア人の目をくりぬき、体を切り刻み、女性をレイプすることです。我々がセルビア人だからという、それだけの理由です。自分だけは助かるなどとは、思わないで下さい。彼らは怪物で、誰も容赦しません。彼らの恐ろしい武器をお見せしましょう。中世に使われた刀、ハンマー、ナイフ、目をくりぬく道具、体を切り刻む道具などです。正常な人間なら恐怖で震えてしまうような代物です。モスリム人は、セルビア人のジェノサイドを準備しています。SDSは、セルビア人の信頼に応えてすべての対策をとります」。
法廷で取り調べのため流された当時の録音は、奇異な感じで、平時に聞いても、それが信じられたとは、にわかには思えない。しかし、当時の状況下におかれた多くのセルビア人は、このような宣伝を事実だと信じ、恐怖心を煽られたという。こうしてマスメディアの宣伝によって ”洗脳” された大衆は、噂に左右されるようになり、噂が噂を呼ぶようになった。
当時、広く信じられたのは、例えば、「モスリム人の産婦人科医がセルビア人を絶滅させるべく、勝手に不妊手術をしている」とか、「モスリム人が病院への送電を阻止したために、酸素吸入が行えなくなって新生児が死亡した」とか、「プリィエドール市の建設現場に掘られた穴は、実は建物を建設するためでなく、セルビア人を殺して集団墓地にするためだ」というもので、これらは、当時の新聞紙上で堂々と報じられたものばかりである。
多谷千香子『「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』pp.116-117
こうして ① ② ③ を経て、他民族の攻撃から自民族を守ることを口実に、「民族主義」を煽り、陣取り合戦を行っていくのでした。
当時の指導者は、表では彼らの犯罪の取り締まりを約束しながら、裏では実行部隊を利用した。そして、治安維持を名目に他民族から武器の提出を強要し、その挙句、”刀狩” に応じない住民がいることを口実にして、実行部隊に村々を襲わせ、集団殺害や放火などによって止めを刺したのである。
多谷千香子『「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』はしがきⅲ
※「彼ら」とは無法者の民兵集団。
著者の多谷千香子さんは、法学者、検察官の方で、2001年9月から2004年9月まで、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所の訴訟裁判官を務められました。
『「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』は、旧ユーゴ戦犯法廷について解説した書籍で、旧ユーゴがどのようにして分裂していったのか、虐殺はどうして起こったのか、「民族浄化」がどれほどの凄惨をきわめることとなったのかが書かれた一冊です。
当時の指導者が、表では実行部隊の犯罪の取り締まりを約束しながら、その背景では彼らをどう利用し、利益をあげ、集団殺害や放火などで村々を陥落させていったか。
千田善さんの著書『 ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇 』には、こう書かれています。
※コザラッツは村の名前。
ムスリム人にとってコザラッツ「陥落」の衝撃は大きく、一週間以内に少なくとも十五の村で、ムスリム系住民がセルビア軍に武器を引き渡した。代わりに「セルビア人共和国」政府と軍が、市民の安全を保証すると約束した。
ムスリム人たちがセルビア人に引き渡した武器の多くは、セルビア人から買ったものだった。
「セルビア人共和国」のS国会議員(セルビア民主党)は戦争前、旧ユーゴ連邦軍やセルビア共和国要人にかけあって「セルビア共和国外のセルビア人支援」の名目で、自動小銃一九〇〇丁と弾薬七〇〇万発を手に入れた。ところがセルビア人に配布するのではなく、ムスリム人に弾薬五〇〇発付の銃を一丁二〇〇〇マルク(十四万円強)で売りさばいた。だれが買ったかは控えておき、衝突発生前に逮捕し、銃も取り返す算段をととのえておいた。一九〇〇丁全部を「商売」に使ったとすると、利益は二億七〇〇〇万円になる。
千田善『ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇』 p.55
元・サッカー日本代表監督イビチャ・オシムの通訳を務め、『オシムの伝言』はじめとしてサッカー関連の本も書かれている千田善さん。1983年から6年3ヶ月間、ベオグラード(セルビア)常勤の新聞記者として旧ユーゴの各地をかけめぐり、ユーゴ紛争のはじまりを見た1991年からは再び、旧ユーゴに拠点を置いて紛争取材。
『 ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇 』は、ユーゴ紛争のさなか(1993年10月刊行)現場から書かれた本で、ユーゴ紛争がどれほど異常な戦争であったか、隣人殺しの地獄絵を垣間見できます。
セルビア人共和国の政府と軍が、「ボスニアの村々に住む市民の安全を保証すると約束した」。この約束なんてのは嘘です。
だけど、政府が「ウソだよー」なんて言うはずもありません。「殺したのはお前らだな」となるよう、セルビア側の軍服を着た虐殺死体が発見されたり、死体発見現場に血痕のないセルビア人が発見されたりといった罠(仕掛け、口実)により、ボシュニャク人集落の村々をも陥落していくのでした。
ボスニア・ヘルツェゴビナに在住するイスラム教徒の人々を指し示す呼称として、社会主義だった旧ユーゴのころは「ムスリム人」としていました。旧ユーゴから独立後は「ボシュニャク人」と復しました。
加えて、現在ではイスラム教徒のボシュニャク人のみを「ボスニア人」と呼ぶことが多い一方、和解主義者など一部では、ボシュニャク人(イスラム教徒)、クロアチア人(カトリック教徒)、セルビア人(正教徒)という宗教に基づいた民族区分によらず、クロアチア人やセルビア人も含めて、すべてのボスニア・ヘルツェゴビナの住民を指し示す呼称として「ボスニア人」とすることもあるとのことです。
この一例はボスニア紛争での話ですが、このように各共和国は、独立にあたり、平和的な交渉でユーゴ連邦の共有財産の分与や、住民の住まいの保証といった事務手続き(話し合い)をせず、強引に、民族間での凄惨な戦闘によって独立を果たしていくのでした。
話しあえよ! って言いたくなる。
話し合ってくれよ! と叫びたくなる。
けれど、たとえばセルビア人共和国議会でセルビア人が次のような演説をすれば、それはセルビア人議員の喝采をあびるのでした。
我々の敵 [モリスム人] は、まったく信頼できない。それが分かっている以上、話し合いは不可能だ。戦争の道を選び、モスリム人を軍事的、肉体的に破壊するしかない。戦争では、もちろん、敵の要人を粛清する。
多谷千香子『「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』p.95
たとえば、関東地方が旧ユーゴ連邦だったとして
民族間での凄惨な争い……といわれても、日本に住むわたしたちにはあまりピンとこないかもしれません。
たとえば、関東地方の茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県が「関東連邦国」という名まえのひとつの国(=旧ユーゴ連邦国)だったとします。
で、「もう北からも西からも攻められることもなく時代も変わったことだし、みんなそれぞれ独立しようぜ」となったとします。この場合、話し合っていくことは、関東連邦国の国有財産等をどうするか、です。
各県人(各民族)の交わりについては別にそのままでいいですよね。関東連邦国の各県(ユーゴ連邦国の各共和国)がそれぞれ独立したとしても、たとえば独立前から東京に住んでいた茨城人の人は、そのまま同じ住居にいていいですよね。
民族主義や差別主義を嫌ったチトーは、みんなユーゴ人!(みんな関東人!)という考えをもつ人だったけれど、新しく台頭した指導者たちは違います。かれらは民族主義者です。
茨城人が東京に住んでいたり、群馬人の父と埼玉人の母をもつ長男は結婚して千葉県に住み、次男は東京人の妻と神奈川県に住んでいるのを、そのままにはしておけません(一見ややこしそうに聞こえるけれど、珍しくもなんともない、ごくごくふつうにあることだよね)。
民族主義政権は、スムーズに分離解体する道筋をつくらず、連邦の共有財産の分与だけではなく、人びとの住居までを奪い合う。奪う方法として、殺し合いの虐殺行為で取り合いさせていくのでした。
茨城県には茨城人のみ。栃木県には栃木人のみ。群馬県も埼玉県も千葉県、東京都、神奈川県も同じく同県人(同民族)のみにしていきます。
ということは、東京に住んでいた茨城人はどうなるんでしょう?
群馬人の父と埼玉人の母をもつ千葉在住の長男一家はどうなるんでしょう? 何県に住めというのでしょう? 何人になればいいのでしょう?
妻が東京人の次男は、いったい誰と殺し合わなきゃいけないのでしょう?
映画『ブコバルに手紙は届かない』
「民族」という虚構のもたらす悲劇を描いた映画に『ブコバルに手紙は届かない』(ボーロ・ドラシュコヴィッチ監督)があります。
舞台はユーゴスラビアの小さな町、ブコバル(実際にクロアチア紛争の最激戦地となった町)。幼なじみのトーマ(セルビア人)とアナ(クロアチア人)が結婚し、幸せな生活を送り始める。しかし内戦がはじまり、トーマはセルビア人勢力に、妻アナの父親はクロアチア人勢力に徴兵される。そうしてトーマはブコバルに配置される……つまり敵として戦わなければならない。
この『ブコバルに手紙は届かない』の字幕監修をつとめられた千田善さんは、ご自身のホームページで、この映画の解説をされています。
ブコバルは三カ月間、よく持ちこたえた。しかし、クロアチア政府は「ブコバルを救え」との宣伝を国内外で続けながら、裏でブコバル向けの武器をボスニアのクロアチア人勢力に回していた。ブコバルは意図的に見捨てられ、クロアチア独立への国際的支援を得るための犠牲、宣伝材料にされたのだ。
(…)
そのすさまじい破壊の跡はサラエボなどと並んで、民族主義の恐ろしさ、人間の愚かさを象徴する「二〇世紀末のモニュメント」である。
※ 解説全文は、千田善さんのホームページ内 で読めます。
ブコバルのすさまじい破壊の跡が、映画の最後で映し出されます(ほんとうに、ほんとうに、すさまじい)。
隣人殺し、きょうだい殺し
戦火は、ブコバル(クロアチア)のあと、サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都)へと拡大していきます。
20万人以上もの死者、200万人以上もの難民・避難民を出したボスニア紛争の地、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでも、異なった民族同士の結婚は、かつてごくあたりまえのことでした(東京の人と神奈川の人の結婚がごくあたりまえのように)。
それを、東京都は東京人のみに。神奈川県は神奈川人のみに。茨城県も栃木県も群馬県、埼玉県、千葉県も同じく同県人のみにしていくために民間人を煽り、各民族に分けて戦わせるというのは、隣人殺し、きょうだい殺しを意味する。これこそが 「民族浄化」(後述)でした。
ボスニア紛争の狂気
サラエボ包囲戦
サラエボは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都です。
サラエボは、山や丘に囲まれた盆地に広がる「東洋と西洋が交差する町」。オリエンタルな町並みと、オクシデンスな町並みが同居する旧市街には、モスク、カトリック大聖堂、セルビア正教教会と3宗教の施設も立ち並び、多様な文化が交りあう魅力あふれた街で、観光客でにぎわいます。
そんな観光資源をもつ首都サラエボが欲しかったセルビア人勢力。
戦術の欠陥(ボスニア政府軍副司令官ヨヴァン・ディヴャク談)があったボスニア側は、ボスニア紛争が始まるや、またたく間に、圧倒的な軍事力をもつセルビア人勢力に、ボスニア・ヘルツェゴビナ全土の6割以上を制圧されてしまいます。
そして、四方を山や丘に囲まれた谷間にある首都サラエボも、町全体が包囲されてしまいました。
↓ サラエボの町は、セルビア人勢力に、こんなふうに(赤色の枠)4年近くも包囲された。
サラエボに住む一般市民が、町の中に閉じ込められたのでした。
住民を町から追い出し、サラエボ領土がほしいセルビアの民族主義者たち。ところがボスニア政府は、市民を逃せば町は空っぽになり領土を取られてしまうため、捨て駒のごとく、市民を町の中に閉じ込めておくことにしたのです(同時に、「こんなにひどい被害に遭ってるんだ」と欧米諸国への宣伝のため(後述))。
セルビア人勢力は、四方を囲むその丘から1日に何百、何千という数の砲撃、ビルからは狙撃兵による射撃によって、老若男女問わず無差別に攻撃するのでした。
市民のための政府であるはずなのに、ボスニア政府からは人質として扱われ、(重い病気の患者さんなど特別の理由がある人以外)町から出ることができないサラエボ市民。
※難民となって町を去った人たちや、セルビア人である市民のうちサラエボを脱出してスルプスカ共和国へ逃れた人たちも多くいます。セルビア人だけどサラエボに残った人たちもいます。
ブコバルと同じです。サラエボの市民もまた、ボスニア独立への国際的支援を得るための犠牲、宣伝材料にされたのです(後述)。
どんな戦争においても、一般市民の命を奪うことは許されません。にもかかわらず、こうして一般市民が生活している場で戦争を起こした。起こっていた。それがサラエボ包囲戦です。
戦争は、わけのわからないまま、ある日、はじまっていると言います。ちょっとした争いかとおもっていた包囲攻撃は、1992年4月5日から1996年2月29日まで、4年近くつづくのでした。
ぼくたちは戦場で育った
砲撃兵の標的は、市場、病院、学校、工場、図書館、劇場、博物館、宗教施設、官公など。
市民生活の基盤となる生命線、電気やガス、水道、電話、交通、通信など生活を支えるライフラインは破壊され、町へと続く主要な道路は封鎖され、食料や医療品の運び込みもむずかしくなります。もちろん砲弾で人も死にます。
狙撃兵の標的は、動くもの。つまり一般市民が標的です。
サラエボ領土がほしいがため、住民を町から追い出そうとしていたセルビア人勢力の目的は思うようにいかず、男性も女性も、大人も子どもも関係なく、スナイパーに狙われました。
世界史上もっとも長い包囲戦。4年のあいだ、サラエボ市内の犠牲者は、死者1万5000人、負傷者5万人、うち85%が市民だったといわれます。
(死者15,000人のうち4分の1はセルビア人(市民)だったそうです。セルビア人でもあえて町に残って「民族の共存」の理想のためにたたかった人たちもたくさんいました)(空港滑走路の下に秘密のトンネルがつくられたけれど、軍人や役人専用でした)
サラエボ包囲戦がどんなものだったか、歴史的事実は知っても、「戦争とはなにか」を感じ入ることは難しい。そんな中、リアルを垣間見れる『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992-1995』(ヤスミンコ・ハリロビッチ編/角田三世訳/千田善監修)は貴重な一冊です。
本書は、過酷だったサラエボ包囲の戦場でこども時代を過ごした、1000人を超す若者たちのショートメッセージなどを集めてまとめられた本です。
以下は、『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992-1995』の第2部「あなたにとって、戦時下の子ども時代とは?」より抜粋しています(名前の後の数字は誕生年で、戦時下、何歳だったかがわかります)。
おぼえていること。
「ママが死んだよ」とパパが言った夜。
それから、
「きみのパパが死んだよ」という言葉。
戦争の馬鹿野郎。ミレラ 1981
パパが前線から、
ママが給水の列から帰ってくるか、
5歳の私は待ちわびて、暗闇のなか、
ほとんどの夜をひとりで過ごした。アナ 1987
昼も夜も爆撃から逃げて過ごした。おかあさんが、食糧と水の配給の行列から、無事に帰ってきますようにと祈りながら。
ダリオ 1984
暗闇。
ぼくの背はのびはじめたけれど、すべては止まった。
ぼくはすべてを失った。ケナン 1979
5リットルの水タンク2つを持って、給水の列に並んでいたときの、凍てつきそうな手と脚。
古くなったパンで作ったかび臭いケーキと、それをチョコレート製であるかのように食べる、6個の口。ジェニーク 1977
一晩でいいからお風呂以外のところで寝たいって、妹と言いにいって、おかあさんとけんかした。
ポリス 1979
砲弾は、家のなかの3枚のコンクリート板を突き破り、ベッドで寝ていたいとこを殺した。
セルマ 1985
ふわふわのちっちゃいくまのぬいぐるみと、はじめてのバービー人形をベビーベッドに忘れてきたの。家に砲弾を撃ち込まれて、ぜんぶなくなったわ。
イワナ 1982
夢、おもちゃ、絵本、ドレス、通り、公園、すべて置いてきた。
何もかもなくした、思い出以外。アイダ 1985
恐怖、地獄、痛み……人形もない、チョコレートもない。
おもちゃは砲撃の音だけ。アニータ 1985
93年、私と弟は、スノースーツのポケットに2つのキャラメルを見つけたの。1個を半分ずつにしてすぐ食べた。もう1個は、もっと悲惨になる日々のためにとっておいたのよ。
イェレナ 1984
食べたいって思ったら、一気にぜんぶ食べちゃえる自分だけのパンがほしかったなあ。
ベドラン 1983
ママ、おねがい、コーンパンふた切れ、今すぐ食べさせて。そうすれば残りの一切れのこと、1日じゅう考えずにすむだろ。おなかペコペコなんだ。
アディス 1980
秘密のドアをよく想像したわ。ドアを開けるとその部屋には、いつでも電気がついて水が出て、冷蔵庫もあるの! しかも満杯の冷蔵庫
ブルーナ 1983
ろうそくを作る油が手に入るとうれしかった。
ろうそくがあれば、読書で現実逃避ができるから。ヤスミンカ 1988
1992年……冬。
もう木がない。本を燃やすか……
本をおしまいまで読んで火にくべた。
なんてことだろう、でもパンを焼かなきゃいけなかった……イリス 1978
10歳のとき、死んだ友だちがトラックに「積みこまれてる」のを見た。
そのあいだに散水車が血を洗い流していた。アムナ 1985
オウムにあげる草を採りに出た弟の心臓を、スナイパーが撃ち抜いた。
彼はたった10歳だった!サーニャ 1979
子どもでなんかいられなかった。
地獄だった……ぼくは子どもたちがどんなふうに死んでいったかを見たんだ。ハリス 1985
ママ、いつになったら外で遊べるの? 地下室で過ごしている数か月のあいだ、いやというほどくりかえした質問。
アルミール 1985
きらきら光る砲弾が何発発射されたか、姉と2人で数えてた。
それでぼくは数の数え方をおぼえた。ケマル 1991
砲撃と弾丸の飛び交うなか、シェルターの子どもたちと戦争ごっこをしていた。
エルディン 1990
地下室で過ごした長い日々。胃袋は空っぽ、妹はいたけど両親はいなかった。
ぼくは15000人の怪我をした子どものなかのひとりだ。アネル 1982
窓越しに外を見ていた膨大な時間……
5分でいいから外に出してとしつこくせがんでも、ぜったいにだめだった……アルマ 1982年
大人たちの浅はかさで、台無しにされた人生の一部。
エルビル 1987
戦争中に子どもでいるってことは、子どもではいられないってこと!
セルマ 1983
巻末には、元サッカー日本代表監督イビツァ・オシムさん(サラエボ出身)の書き下ろしエッセイも掲載されています。
映画『パーフェクト・サークル』とオリンピック会場跡を埋める墓標
ボスニア全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万人以上、難民・避難民200万人以上を生んだボスニア紛争。
20万人という数字がどれほどのものか……。サラエボ包囲戦での死者数1万5000人がどれほどのものか……。
町を包囲されたサラエボの市民の暮らしを描いた『パーフェクト・サークル』(アデミル・ケノビッチ監督)というボスニア映画があります。
(『パーフェクト・サークル』は、これまでに観た戦争映画のなかでとても好き。戦争映画に好きってのもヘンだけど、上述の『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992-1995』の本を読んでいると溢れでる思いに似た作品で、映画は町全体をぐるりと囲まれたサラエボの内部から、銃弾と砲弾がとびかう内戦中のサラエボを伝える。大袈裟な演出ではなく、戦争ってこういうことなんだ……って静かに深く響く。兄弟を演じたこどもたちは、実際に難民キャンプにいた素人のこどもたちだそうで、かれらは映画が描く日常(非日常)を生きている……。名作。)
『パーフェクト・サークル』の冒頭で映しだされる、雪にうもれた一面の墓地。
墓地になる前、その場所は、1984年サラエボで行われた、初の社会主義国での冬季オリンピック会場でした。この地への想いが、下のニュースからも読みとれます。
1984年2月のサラエボは、信じ難いほどの熱気に満ちあふれていたという。町が「一丸となって強い息吹を感じていた」と語るのは、当時、山林の危機管理対策関連の仕事に携わっていたドラゴ・ボジャ(Drago Bozja)さん。ボジャさんはさらに、「町は燃えていて、みんな幸せだった。街頭では知り合いでもない人々が集まって五輪の話に明け暮れ、誰もがこういうふうに進めて行くべきという意見を持っていた」と当時を振り返った。
旧ユーゴ時代にバイアスロンで4度の優勝経験を誇るトミスラブ・ロパティック(Tomislav Lopatic)さんも、サラエボ冬季五輪は「ユーゴスラビアが『同胞国家』として取り組んだ最後の偉大なプロジェクトだった」と振り返る。自ら選手として出場した同大会では、「みんなが試合に命を懸けていて、心を開いて準備・運営に取り組んでいた。ユーゴスラビアに暮らすあらゆる民族が参加していた」という。
増大する死者により墓地が不足し、歓喜に溢れたその地を墓地にするしかない哀しみ。
開催からわずか8年。平和の象徴の五輪会場が、悲劇の象徴である戦争墓地になったのでした。
実際に五輪会場跡に立つと(写真(上):わたしたちが行ったときも雪にうもれていた)、海を見るときのように、墓地があまりに広すぎて視界にその端っこが見えないの。目の前に見える風景が、一面の墓地だなんて…。
映画『パーフェクト・サークル』のなかで、こどもの遺体を埋葬したいのだけど、もう埋めるスペースがないよって場面があるんですね。視界に収まりきれない広さだというのに、殺されていくひとが増え続けるもんだから、こども一人眠れるだけのちっちゃなスペースさえ、もうない…。
サラエボ包囲戦による死者1万5000人のうち、1600人はこどもだったそうです。
オリンピック跡地のみが墓地と化したのではなく、サッカー場や公園、空き地など、町のいたるところに墓地はあり、墓標がたてられていました。
(ボスニア紛争を描いた映画はほかにもたくさんあります。記事一連の最後で紹介しています。)
ボスニア紛争は、だれとだれの戦い?
サラエボ包囲のことを知ると、あたかも悪いのはセルビアだ、となりそうだけど、ボスニア紛争は、ボスニア、クロアチア、セルビアの三勢力による戦いです。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、ユーゴスラビア連邦のなかでも民族の混在率が高く、チトー率いるユーゴ時代は、主要の3民族(ボシュニャク(ムスリム)系、クロアチア系、セルビア系)は、貧困にあえぎながらも共存して暮らしていました。
ボスニア・ヘルツェゴビナに住む主要3民族は、言語・文化の多くは同じで、宗教が異なる。
・ボシュニャク系(ムスリム人)(ボスニア人) … イスラム教徒
・クロアチア系(クロアチア人) … ローマ・カトリック教徒
・セルビア系(セルビア人) … セルビア正教徒
しかしながらスロベニア、クロアチアをはじめとして、ユーゴスラビアの分裂崩壊が急速に進むなか、主要3民族が混在するボスニア・ヘルツェゴビナも1992年に内戦に陥ります。
といっても、戦いをおっぱじめたのは言うまでもなく、ボシュニャク人やクロアチア人、セルビア人の一般市民ではなく、政権を握ったナショナリズムの政治家・指導者たち。
ユーゴ連邦からの独立を賛成する「ボスニア政府とクロアチア政府」VS ユーゴ連邦からの独立を反対する「セルビア政府」の二者対立により、紛争は始まりました。
しかし、ボスニアと手を組んでセルビアを倒したあと、ボスニアをやっつけるつもりだった面従腹背のクロアチアは、紛争が始まるやセルビアにつきます(アメリカ介入後はアメリカにつきます)。
九一年春、表面上は激しく対立していたセルビアのミロシェビッチ、クロアチアのトゥジマン両大統領は突然、故チトー大統領の別荘があったボイボディナ自治州カラジョルジェボで会談し、ボスニア分割について話し合っている。
ボスニア戦争開戦後も、セルビア側のカラジッチ、クロアチア側のボバン両指導者はオーストリアのグラーツ市で少なくとも二度、極秘で会談している。うち一回はクロアチアのマノリッチ大統領特使が同席した。両者はここで「ボスニア分割」で原則合意した。
たとえば、ヘルツェゴビナ地方の両者の勢力圏の境界はネレトバ川とし、ヘルツェゴビナの中心都市モスタルは二分割するなどの内容だ。協定は存在そのものも秘密にされてきたが、国連・ECの調停案がモスタル市全域をクロアチア側に組み入れ、クロアチア側がこれを喜んで受諾したことで、セルビア側が「約束が違う」と内容を暴露した。
ムスリム、クロアチア両陣営は、事実上の「反セルビア」軍事同盟を結んでいたが、こうしたクロアチア人の二枚舌政策の結果、関係はぎくしゃくし続けていた。国土の三割弱に「クロアチア人自治区」を樹立したクロアチア側は、同地域へのムスリム兵(ボスニア正規軍)の立ち入りを禁止、これにたいしムスリム側はクロアチア人向け物資の通過拒否などで対抗した。九十三年四月、ついに両軍は本格的な戦闘状態に突入、互いに相手民族を追放する「民族浄化」を実行した。
千田善『ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇』p.39
結果、ボスニア紛争は、ムスリム系武装勢力軍(ボスニア政府軍)、クロアチア系武装勢力軍(クロアチア人防衛評議会軍)、セルビア系武装勢力軍(スルプスカ共和国軍)が戦う三つ巴の内戦となりました。
これら三勢力と、それぞれの正規部隊以外の民兵集団(戦闘集団)とが、互いに他民族への残虐行為を行うのでした。
以下は、国際連合事務総長特別代表としてユーゴ紛争の調停役を務めた明石康さんへのインタビューを行った『「独裁者」との交渉術』からの引用です。インタビュアー(および解説)は、旧ユーゴの現場を熟知するジャーナリスト木村元彦さんです。
ボスニア戦争の実態は、やはり西欧のマスコミに描かれているようなものとは少し違います。双方ともいろいろ残虐行為を働き、非戦闘員である市民を標的として攻撃していましたし、ボスニア政府のほうが相手を挑発しているケースもありました。
明石康・木村元彦『「独裁者」との交渉術』p.139
トゥジマンは目的のためには手段を選ばない人でした。その目的というのは、クロアチアを民族国家として独立させることで、彼はそれ以外のことは、おそらく念頭になかったでしょう。私は彼とは二十回ぐらいは会っているんですが、彼はボスニア政府に対してボスニア政府という表現を使ったことが一度もないんです。
ー 何と呼んでいたのですか。
「あのムスリムの奴ら」と。ー 政府に対してあのムスリムたちですか。
やや軽蔑の念を込めてね。セルビア人に対しては、ボスニア人に対するよりは一目置いた表現を使っていましたね。(…)明石康・木村元彦『「独裁者」との交渉術』p.153
『「独裁者」との交渉術』は、日本人初の国連職員・明石康さんの国連事務総長特別代表として調停にあたったカンボジアPKOやボスニア紛争での調停の話や、日本政府代表として調停にあたったスリランカ和平での話が、インタビュアー木村元彦さんの鋭い質問のもと、ウラ側も含め数々披露されています。
シアヌークやミロシェヴィッチ、カラジッチといった現代史に名を残す政治家・ナショナリストたちと、どのように対話し続けてきたのか?
その交渉術は、そのままビジネスにも夫婦間や親子、意見の異なる相手にどう言えばいいの?上司には? なんてときにも、すべてにおいて肝に銘じるありかたで、身につけたい、身につけなければならないものでした。
「独裁者」との交渉術――ボスニア カンボジア スリランカ国連和平調停の舞台裏 (集英社新書)
ユーゴ紛争が勃発した1991年当時、3民族が共存していた人口約430万人のボスニア・ヘルツェゴビナは、「ユーゴ連邦への残留」を主張するセルビア系(人口の33%)と、ユーゴからの独立をめざす「独立派」ボシュニャク系(人口の44%)、クロアチア系(人口の17%)のふたつに国論が分裂しました。
92年2月、人口で多数となるボシュニャク・クロアチア系「独立派」のボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、セルビア人の反発を無視して、独立の賛否を問う住民投票を強行し、多くのセルビア人が投稿をボイコットしたため、住民投票は90%以上が独立賛成という結果にもちこみます。
これに基づき、ボスニア・ヘルツェゴビナは、翌3月にはユーゴからの独立を宣言したのでした。
独立に反対し、分離を目指した「ユーゴ連邦への残留」を主張するセルビア系は、ボスニア北部を中心に「スルプスカ共和国」の独立を宣言するとともに、国内のセルビア人勢力を、ユーゴスラビア連邦軍が後押しして内戦が始まります。
ボスニア紛争は、何の戦い?
利権の絡まない戦争はありません。ボスニア紛争は領土紛争です。
紛争の背景にあるのは、「ここの領土がほしい!」「いや、ここは俺たちのものだ!」「いやいや、ここは私たちが支配する!」の陣取り合戦。
ボスニア紛争は、民族紛争ではなく、宗教紛争でもなく、政権を握った3つの主要民族(ボシュニャク人(ムスリム)、クロアチア人、セルビア人)の民族主義者たちが、支配領土の拡大・分割をめざし、民間人を利用して行った利権争いです。
日本大学大学院総合社会情報研究科の原口岳久さんが発表された論文「ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける民族意識の形成」には、こう書かれています。
ボスニア内戦に関し、西側には次のような見方がある。
バルカンは民族紛争の巣窟である。過去の紛争によって人々の心の中には異民族に対する不信や憎悪が根深く存在している。今回の紛争はそれが表面化したものである。しかしこの見方は真実なのであろうか。民族の溝とはそんなにも深く、何かのはずみで紛争を引き起こさずにはいられないようなものなのか。
この問いにこたえをくれるかのように、千田善さんの著書『ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇』にはこうあります。
ボスニア・ヘルツェゴビナ戦争は、血みどろの領土分割戦争である。三民族のうち、「本国」の支援を背にしたセルビア、クロアチアの両民族が、あわせて八割以上の領土を支配した。
千田善『ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇』p.38
NATO(北大西洋条約機構)による大規模空爆を経て、1995年12月、デイトン和平合意の成立により戦闘は終息しました。
サラエボ包囲戦に象徴されるボスニア紛争は、3年半以上にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万、難民・避難民200万人を生み、「スレブレニツァの虐殺」や、「ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産の横行」など、第二次世界大戦後欧州で最悪の紛争となりました。
内戦終結後のボスニアは、ボシュニャク人とクロアチア人とが主体の「ボスニア連邦」と、セルビア人が主体の「スルプスカ共和国」(セルビア共和国)、2つの国家内国家に分かれた構成体によって構成されました。なお、両者が権利を主張して合意に至らなかったブルチコについては、2000年の裁定によって独自の行政区「ブルチコ行政区」としてボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の直轄地とされており、3つの構成体となっているのが現状です。
民族浄化(ethnic cleansing)とはなにか?
多民族が共存していた一つの国・旧ユーゴスラビア連邦が分裂し、「民族浄化」(ethnic cleansing)がはじまりました。
いっけん美しそうな響きの言葉だけど、民族浄化とは、いいかえれば「他民族抹殺」です。当時の指導者が仕掛けた権力闘争です。
複数の民族が住んでいる地域において、他民族を自国領土より強制的に追放や殺害することで根絶やしにし、その地域を民族的に「純化」し、単一民族による国家を作ることを意味します。
(上のほうで例えにあげた、東京に住んでいる茨城出身のひとや、栃木、群馬、千葉、、、のひとたちを追い払ったり、殺害したりして、東京を生粋の東京人だけにした「東京」にする、っていうやつです。)
「民族浄化」という言葉は、ボスニア紛争で、ボスニアが仕掛けた反セルビアを煽る周到なメディア戦略による造語(後述)です。PR戦争はうまくいき、国際世論はセルビア悪玉論に覆われました。(セルビア人勢力は非道なことをしまくった)けれども、決してセルビア人勢力だけが非道なことをした加害者だったわけではありません。
三つ巴の領土分割戦争だったボスニア紛争では、セルビア人やクロアチア人が民族的に「純化」した純粋な地域を作るという目標を高言していたように、将来イスラム国家を樹立したかったボスニア人(ボシュニャク人)もまた、同様の考えを抱いていました。
クロアチア紛争やコソボ紛争も同じです。民族的に「純化」した純粋な地域を作りたいがため、各勢力の民族主義者たちは似たり寄ったりの惨たらしい残虐行為 —— 各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、資産の強制接収、家屋への侵入、略奪、放火、破壊、暴行、拷問、強姦、集団強姦、虐殺、強制収容、強制追放、大量虐殺など —— を繰り広げた。これが民族浄化と呼ばれる現象です。
ボスニア内戦の残虐行為を分析した佐原徹哉著(東欧現代史・中東現代史・紛争研究を専門とされる明治大学教授)『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』があります。
『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』は、戦争そのものの姿を十分に解明するために、歴史的背景から始まり、戦争の展開や残虐行為の実像を詳細に辿りながら丁寧に考察されている本です。400ページを超える本書には、三勢力が犯した民族浄化がどのような残虐行為でもって行われたのか、民族浄化の本質とともに詳しく書かれています。
※「スレブレニツァの虐殺」のことや、女性に対する集団レイプや強制出産の横行、オマルスカ収容所はじめ各収容所での暴行など、これら無軌道で悍ましい事例はこの記事ではあえて触れていません。「フォチャの虐殺」についても『ボスニア内戦 [国際社会と現代史] 』からほんの一部を引用したのみです。
なお、「スレブレニツァの虐殺」については、長有紀枝著『スレブレニツァ―あるジェノサイドをめぐる考察』が詳しかったです。
以下、『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』より、ボスニア人、セルビア人、クロアチア人、それぞれが、それぞれに行った暴力の実態が書かれている、「Ⅵ 民族浄化」から、一例、二例を引用します。
ボシュニャク系武装勢力、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍による民族浄化
ゴラジュデという町でのセルビア人市民への迫害の様子。
五月四日には遂にゴラジュデ市街地でも戦争が始まった。(中略)ボスニア人は終始優勢に戦いを進め、数日後には市街全域をほぼ制圧した。
佐原徹哉『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』p.296
ボスニア人は市街地を確保すると、次に郊外のセルビア人の拠点の制圧に乗り出した。五月二〇日には民族混住の村、ヴィトコヴィチでセルビア人の追放が行われ、一つの家族が皆殺しにされるなど一〇名以上の村人が殺された。その二日後には二二人の小集落ボラク・ブルドが攻撃を受けた。ここでも極めて残忍な方法で六人が殺害され、残りは逃亡した。事件後、村は隣村のボスニア人たちに略奪され、跡形もなく破壊された。
佐原徹哉『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』p.297
中央ボスニアでのクロアチア人市民への残虐行為の一部。
中央ボスニアではクロアチア人への残虐行為が繰り広げられた。早くも一九九三年一月二五日には、ドゥシナとラシュクヴァという二つのクロアチア人の村がボスニア政府軍に攻撃された。この際、ドゥシナ村では一四名のクロアチア人兵士の捕虜が殺害され、ラシュヴァ村ではボスニア兵と「ムジャヒディン」の混成部隊によって女性と子供が追放され、男性は殺されるという事件が発生した。事件後、二つの村にはボスニア人難民が住み着いた。
一九九三年八月にクロアチア側がまとめた報告書によると、四月以降、ボスニア政府軍は六つの自治体(コーニッツ、ヤブラニツァ、トラヴニク、カカニ、フォイニツァ、ブゴイノ)からクロアチア人を追放し、一八七のクロアチア人の村を破壊し、四五〇〇人を収容所に抑留したというが、これはあながち誇張でもないようだ。佐原徹哉『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』pp.298-299
ボスニア政府軍第三軍司令官であったエンヴェル・ハジハサノヴィチ以下三名の裁判では、一九九三年一月からの一年間に中央ボスニアの一一自治体において、ムスリム第七山岳旅団によって、セルビア人とクロアチア人の市民に対する大規模な残虐行為が展開された事件の責任が争われている。検察側の告訴状によれば、第七旅団は子供や老人を含む二〇〇人以上の民間人を殺害し、その他を不当に逮捕・投獄し、収容施設で暴行と虐待を行なった。こうした残虐行為の中には、捕虜に自らの墓穴を掘れと脅迫した事例や、手足を切断した事例、強制労働中に暴行を加えて殺害した事例などが含まれている。
佐原徹哉『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』p.299
セルビア系武装勢力、スルプスカ共和国軍による民族浄化
隣人による殺人が圧倒的に多かったフォチャでの残虐行為。民族浄化により、54%を占めていたボスニア住民がわずか十数人になったことがわかります。
上ドリナ地方の中心都市、フォチャは(中略)一九九二年の夏に目を覆うばかりの陰惨な残虐行為の舞台となった。(中略)上ドリナ地方の住民の民族構成はボスニア人五四%、セルビア人四二%で両者の力が拮抗していただけでなく、ボスニア人にとってはサラエヴォとサンジャク地方を結ぶルートの要衝であり、セルビア人にとっても本国と東ヘルツェゴヴィナの連絡を確保するために欠くことのできない位置にあった。
佐原徹哉『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』p.215
(前略)セルビア人は、村を制圧すると、民家をくまなく略奪し、その後、火を放った。住民は森の中に隠れて、機会を伺って安全な地域に逃げ出そうとしたが、少なからぬ人々が発見されて殺された。こうした戦闘で少なくとも一二〇〇人のボスニア人が殺されたと見られている。
捕えられた人々を待ち受けていたのも過酷な運命であった。(後略)佐原徹哉『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』p.219
フォチャを舞台にした残虐行為はこればかりでない。他のケースと同様、セルビア人はフォチャでもイスラム的歴史遺産を徹底的に破壊した。これには有名な逸話が残っている。フォチャ占領後、セルビア民主党幹部のビリャーナ・プラヴシッチが視察に訪れたが、彼女は市内に残るモスクを指差して、「トルコのモスクが残ってるなんて、これではフォチャがセルビア人の町にはならないわ」と不満を漏らした。そこで、セルビア人たちは、市内にあって一一のモスクをすべて破壊し、次いで、ナクシュバンディ教団のテッケ(道場)、マドラサ(イスラム学校)、図書館、ムスリム墓地といったトルコ・イスラム文化の痕跡を一掃した。
一掃されたのは、文化遺産だけではない。セルビア人たちはフォチャのボスニア人も徹底的に追放した。(中略)フォチャは一九九五年に「スルビニェ」(セルビア人の土地の意)と改名されたが、この時点でフォチャに残っていたボスニア人はわずか十数人に過ぎなかったという。佐原徹哉『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』pp.222-223
クロアチア系武装勢力、クロアチア防衛評議会軍による民族浄化
ポサヴィナ地方でのセルビア人市民への残虐行為、およびモスタルの破壊行為。
(前略)ドーニャ・ドゥビツァ村は四月一八日にクロアチア人の砲撃を受け、二日間の攻防戦の後に降伏した。
村人たちは近隣のノヴィ・グラードに避難し、ここでさらなる抵抗を試みたが、クロアチア人は近隣の自治体や本国正規軍を動員して、五月二日に総攻撃を開始した。村は重火器で包囲され、砲弾が雨霰のように浴びせられた。セルビア人は多くの犠牲を出しつつも五月七日まで持ちこたえたが、安全な脱出を保証するという条件を受け入れて降伏した。翌日、村人たちはトラクタに家財道具を積み込んで村を離れた。しかし、セルビア人の隊列はオジャク市街地に入ったところで制止され、家財と金品を没収された後に、バスで小学校に連行された。ここで成人男性は「捕虜」として逮捕され、小学校の体育館に監禁された。そこには七〇〇人以上が詰め込まれ、不衛生で劣悪な環境の中で、激しい暴行をうけ、多数の人々が殺された。女性と子供は三週間ほど別の場所に軟禁された後、廃墟となったノヴィ・グラードに送り返された。
クロアチア人は、ポサヴィナだけでなく、中央ボスニアのクプレスおよび西ヘルツェゴヴィナ全域でも徹底的にセルビア人を追放した。(中略)クロアチア人はセルビア教会などの歴史的建造物や墓地を破壊し、モスタルに残るセルビア的痕跡を消し去った。佐原徹哉『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』pp.253-254
ヴィテズ郊外にあるアフミチ村でのボスニア人市民への残虐行為。※ウラマーとはイスラム教でイスラム法を学んだ神学・法学者のこと
アフミチ村はヴィテズ東方五キロにある二〇〇軒ほどの家からなる集落で、事件当時は、約五〇〇人が暮らしており、その九割がボスニア人であった。この村は伝統的に多くの著名なウラマーたちを輩出してきた場所で、ボスニア人の間では一種の聖地と見なされ、ボスニアのイスラム文化の象徴の一つでもあった。そのため戦略上重要な場所でもなく、ほぼ完全に武装解除されていたにもかかわらず、「クロアチア人防衛評議会」はこの村でボスニア人の殲滅作戦を実施した。
攻撃前夜にアフミチのクロアチア人住民は女性と子供を避難させ、成人男性は攻撃を手引きするため武装して待機していた。その間、正規軍の精鋭部隊が夜の間に村を包囲した。部隊は三方から村に突入する陣形をとり、一方だけを故意に空けておいた。避難しようとする村人たちを一ヶ所に集中させ、隠れていた狙撃兵が一網打尽にするためである。
攻撃は払暁とともに開始された。まず、激しい砲撃が行われ、続いて歩兵部隊が突撃した。兵士たちは五〜一〇人のグループに分かれて、民家を一軒一軒襲撃していった。多くの村人が突然の襲撃にパニックとなって逃げ惑ったが、兵士たちはこうした人々を次々と惨殺していった。
事件を偶然目撃した国連平和維持部隊のイギリス兵は、この時の攻撃には明らかなパターンがあったと証言している。それによると、クロアチア兵はまず民家に火をつけ、地下室などに隠れている住民が逃げ出すのを戸口で待ち構え、男性は即座に射殺し、女性は強姦し、子供たちには目の前で家族が殺されるのを目撃させたという。ナセル・アフミッチとその家族もこうした襲撃で惨殺された一例である。クロアチア人兵士はナセルを射殺し、妻を負傷させると、家の中に石油を撒いて火をつけ、炎の中にいる四歳と三歳の息子たちに銃弾を浴びせた。
うまく自宅から逃げ出せた人々も、安心はできなかった。森の中に逃れようとした人々も無差別に撃ち殺されたからである。カソリック教会の墓地付近では特に多数の死体が発見されており、そのなかには女性や子供も混じっていた。遺体はいずれも至近距離から撃たれており、意図的に処刑されたのは明らかだった。
クロアチア兵は女・子供といえども容赦はしなかった。(中略)
この攻撃によって女性や子供を含む一一六人以上のボスニア人が殺され、一六九軒の家屋が焼き討ちされ、二つのモスクが破壊された。家畜や納屋なども徹底的に破壊された。いずれも住民の帰還を阻止するためであった。ヴィテズ郊外では他にも八つの村でアフミチ同様の残虐行為が繰り広げられた。佐原徹哉『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』pp.261-263
民族浄化の狂気
下の写真は、2007年に旧ユーゴ圏を旅したときに、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルという町で撮ったものです。
家々のドアや窓は破壊されていて、残っている壁も銃弾の痕だらけ。奥に見える家も銃痕の穴だらけでした。
下の建物は、爆撃で内部が破壊され、外壁だけがかろうじて残っている状態です。手前隣りの家も同じ(向こう隣りの家は再建されていました)。
ここモスタルのムスリム(ボスニア人)地区では、弾丸の痕がない家のほうが少なく、廃屋もたくさんありました。
領土を拡大したいからと、欲するその領土に住む他民族の一般市民にいきなり銃を向ける……。こんな非道があるでしょうか。その地域を民族的に「純化」したいからと、いきなり家に火をつける……。常軌を逸しています。
しかし、殺しも強姦も盗みや破壊もし放題。それがボスニア内戦でした。
政権を握った民族主義者たちは、
他民族との対立を煽るために「民族主義」を煽り、
「民族主義」を権勢拡大の道具として採用し、
同民族の民間人を集め、
武装組織(民兵組織)に仕立てあげ、
異なる民族への迫害、虐殺をはじめさせた。
このようにして、支配下に置いた地域から他民族を根絶する「民族浄化」と呼ばれる凄惨な戦いを展開。実行された民族浄化は、あまりに惨たらしい野蛮な残虐行為がくりかえされていくのでした。
民族浄化の手段 — 性暴力の武器
ライフルやマシンガンを持ち、マスクをかぶったこのような民兵集団が、突然家に押し入ってくるのです。
上のほうで、
東京都は東京人のみに、神奈川県は神奈川人のみに。茨城県も栃木県も群馬県、埼玉県、千葉県も同じく同県人のみにしていくために民間人を煽り、各民族に分かれて戦わせるというのは、隣人殺し、きょうだい殺しを意味する。これこそが「民族浄化」(後述)でした。
と書きました。
この、東京都は東京人のみに、神奈川県は神奈川人のみにしていくため実行された民族浄化のもとでは、あまりに惨たらしい残虐行為が行われていきます。
手段としては、上述『ボスニア内戦 [国際社会と現代史]』の引用にみるように、東京に住んでいる神奈川人に対し、東京人は、各種の嫌がらせや差別的な待遇、家屋への侵入・略奪・破壊、資産の強制接収、武器の没収、放火、暴行、拷問、強姦、集団強姦、殺人によって、東京から退去せざるを得ない状況に追いやったり、強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺による方法をとりました。
逆もしかりです。神奈川人は、神奈川に住んでいる東京人に同じことをして、神奈川から東京人を追い出します。
従軍可能年齢にある男性たちは、各地で虐殺や強制収容の対象とされました。
組織的な性暴力もあります。性暴力を武器としてつかうのです。女性たちは強制収容後、組織的な強姦を繰り返され、妊娠後中絶が不可能な段階になってから解放されます。そうすることによって、出産せざるを得ないよう仕向けるのです。
中でも、家父長的な男権社会の影響が残っていたボスニア・ヘルツェゴビナの村社会では、女性が強姦によって(異民族の子を)妊娠・出産したということは、一族にとって非常な不名誉と見なされるため、これによってコミュニティを破壊させ、効果的に異民族を排除できると考えられたためだといわれます。(ボスニア映画の記事で紹介している映画『サラエボの花』はこの性暴力を題材に描いています。)
「コソボ紛争へのNATO空爆の実態とアメリカの正義(3)」につづきます➡︎
ユーゴスラビア紛争における狂気
「旧ユーゴスラビア誕生から崩壊、紛争までの概略(1)」
旧ユーゴスラビア連邦の各共和国・各民族間の対立や混乱を抑えたヨシップ・ブロズ・チトー大統領のこと、チトーの死後にユーゴスラビア紛争がはじまるまでの概略
「コソボ紛争へのNATO空爆の実態とアメリカの正義(3)」
② と ③ のアメリカ広告代理店による「民族浄化」(ethnic cleansing)の形成、NATO空爆の正義という不正義について