こんにちは。
AI-am(アイアム)の
星山 海琳 です。
トークライブで毎回質問をいただくなかで、飛び抜けて多い「小・中・高に通わず、勉強もせず、毎日なにをしていましたか?」について、ブログでも答えてみます。
「学校へ行かないあいだ、どんな過ごし方をされていましたか?」について思うこと3つ
2〜3回のトークライブでも、これだけの質問をいただきます(ありがとうございます!)。
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- 「12年間は、1日どんな過ごし方をされていたのですか? 本など読まれましたか?」
- 「小学生〜高校まで、一日の生活はどんな感じだったの?」
- 「お子さん2人は学校へ行っていない間、毎日どこで何をしていたのでしょうか」
- 「不登校中のすごし方を聞きたいです」
- 「学校の時間に何をして過ごされましたか?」
- 「小・中・高と行ってない期間、どう過ごしていましたか?」
- 「小、中、高に行かれていないとの事ですが、毎日どの様な生活をされていたのですか?」
- 「毎日、まりんさんどのように生活してきたのか?(小中高)」
- 「学校に行っていない間は、何をしていましたか?」
- 「毎日、マリンちゃんは何してたの?」
- 「学校に行っていないときはどのように過ごされていましたか?」
- 「学校にいかなくなった時どう過ごしていたか?」
- 「お子さんが学校に行かずに家庭にいる間、主にどんなことをして過ごしていたのですか?」
- 「まりんちゃんが学校に行っていない間は、スクールでどんなことをしたりしてあそんですごしていたのですか?」
- 「お二人とも学校(小〜高)に行かなかったとの事ですが、日中は何をして過ごしていたのでしょうか? ドリル、TV、おもちゃ…?」
- 「子供たちは小学生時代、家でどうやって過ごしていましたか」
- 「学校に行っていない間は何をして過ごしていましたか」
- 「学校に行っていない間、どうすごしていたのか?」
- 「休んでいる間は、何をしていましたか?」
- 「学校へ行っていなかった12年間、毎日何をして過ごしていましたか?」
- 「学校に行かない時間をどう過ごしてきたか」
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トークライブではほかのご質問もあったり時間の制限もあったり……と答えきれない部分があるので、こちらで。
(☆ 上記の質問のなかで勉強などのワードが出てこないのは、わたしが大学入学を思い立つ17歳まで、一切の科目勉強をしてこなかった旨を書籍やトークライブ中でお話しているからです)
こういった質問をいただいて思うことは、おおまかに3つあります。
- 12年間もの年月でやっていたことを一言、二言では答えられない
- “何を”していたかが気になるのはなぜ?
- 何をしていてもだいたい同じ
12年間分の今日について
よく、学生時代は部活に明け暮れていましたとか、バイト三昧でしたとか言うように、「何をしていたか」って定型的な質問だろうなとは思うんです。
「今日は何をしたの?」とか、「大きくなったら何になりたい?」も、おそらく同じ類のもの。
そういう、人の時間や生活を簡略化するような質問が蔓延していることで、みんな、「したこと」を切り取ったりコンパクトに伝えることに慣れているのかもしれない。
わたしは慣れてません。予定らしい予定のなかった今日一日でさえ、何をしたかと聞かれたら、起きてからの時間をバカみたいに一つひとつ思い起こす。
起きたときの気持ち、それから誰とどんな挨拶をしたか、それからどんな話になったか、どれくらいぼーっと座っていたか、どんな音楽を聴いたか、どんな記事を読んだか、なにを食べたか飲んだか、「いい舟」の読み物をつくったり、ブログの調整をしたり、メールのやりとり、昼寝の時間、スーパーへ買いものに行ったことetc、etc、全部わたしの「したこと」です。
わたしは、野球や料理、ゲーム、勉強……そのほかなんでも、なにか一つのために人生があると言えるようなタイプではなくて、つまり6歳から18歳の12年間には、こういうものが12年間分ある。
☆ 新刊『不登校になって伸びた7つの能力』の中でも、細かく書き出しています
でも、そんなことを聞いてんじゃないんだよな、って感じじゃないですか? たぶんこんなことを一つひとつ聞かされて納得するような人は、この質問自体、あまりしないと思う。
比較、照合、答え合わせ
それって、こういう質問には、はじめから求めている答えがあるってことですよね。
知恵や知識、情報を求める以外、あるいは考察などを深める以外の、個から個へされる(”わたし”についてではなく”あなた”についての)質問の場合、「どうしてその質問をするのか」が常にその人自身をあらわすところが面白いと思うんですが。
この質問はたいてい子どもが不登校をしているご家庭からいただくんですが、子どもから尋ねられたことはまだ一度もないんですよね。
子どもの場合はもっと具体的で、どうやって勉強したかとか、バイトしたいけど人が怖くてとか、心配になっている部分を明確に尋ねられたり、こういう目的があって、こういう理由で、と添えられることが多い。
もちろん、親が(親自身についての質問以外で)具体的な質問をしないことはぜんぜんおかしくないですよ。だって、不登校をしているのは子ども本人だから。
冒頭に並べたのはすべて、親御さんからいただいた質問です。そこにはどんな期待があるだろう。
学校に行かない生活をイメージできないから、心底、ただただ気になった、って人もいると思う。そういう場合は、宿題のない夏休みみたいなものと思ってください(あくまでも”わたしの場合は”です)。
でも、多くの人は、自分の子どもと比較しているんじゃないかと感じます。
自分の子どもが不登校をしている姿、その過ごし方に不安があって、あるいはものすごく自信があって(?)、二十歳を過ぎて比較的健全そうに見える(といいんですが)、わたしの過ごし方と照らし合わせてみようとする。
わたしや子どものやっている(やっていた)こと一つひとつの動機でも、気持ちでも環境でもなく、あくまで「何を」していたかによって。
行動は答えじゃない
たとえば子どもがゲームやYoutubeばかり、ようするに親自身にとって快くないことばかりをやっていて(この「ばかり」っていうのもだいぶ曖昧なんですけど)、「この子これで大丈夫かな」とかなんとか思うとき、当時のわたしの行動と比較してみる。
それで、めっちゃゲームやってましたよ、と答えられたら、たぶん安心する。いやゲームは全然やらなくて、いつもムズカシイ本を読んでました、と答えられたら、いっそう不安になる。
どちらにせよ、子どもに対して、こんなに失礼なことはないです。
環境が子どもの育ちを変えることは確かだと思うし、なにを見たり聞いたり、どんな考えに囲まれるかで、わたしたちはあっちにもそっちにも、行くことができる。
でもそれは、根本的な部分であって、根本的に健全な人間が、「(やりたくないけど)どうしてもしなければいけないこと」のない時間に、ゲームをしても本を読んでも、外で走り回ってもテレビを観ても、差はないです。
もちろん違いはありますよ。なにが好きか、なにをしているのが楽しいか、ゲームが面白いか本が面白いか、ただそれだけの違いが。それとも、「ゲームが好きな子」じゃなく「本が好きな子」であってほしい? それは、なんのために?
デモクラティックスクール(サドベリースクール)によく寄せられる質問のひとつが、「子どもたちは何をして過ごしていますか」というもの。
自分自身がやりたいことをやって過ごしていますよ、と聞かされても、「やりたいことをやっている子どもたち」に関心を持つのではなく、「じゃあその子どもたちのやりたいことって何か」と、その行動、対象物によって評価を変える人を、たくさん見ます。
どんなことであれ、「なにを」やっているかより、「なぜ」やっているかが、その人自身を指すはず。
ゲームをしていたらバカになるわけじゃないし、本を読んでいたら賢くなるわけじゃありません。ゲームをやりたい人がやるからゲームは面白く、本を読みたい人が読むから本は面白い。