学校が嫌で行きたくない小中高生31人の声と、多様な教育を実現させる重要性

am3こんにちは。

AI-am(アイアム)
よっぴー です。

 

学校に「行く」「行かない」は、対等な選択肢のひとつであり、

不登校や苦登校は、子どもの問題ではなく、子どもの人権を尊重しない教育制度自体の問題です。

 

子どもが「学校に行きたくない」、親が不安になるのは当たり前

子どもが「学校に行きたくない」と言ったり、学校に行けない、、、行かない、、、どうしたらいいんでしょうか?

無理に行かせるのは嫌なので、しばらく様子を見つつ休ませているのですが、それでもいいんでしょうか?

… といったメッセージを、 LINE@ にもよくいただきます。

 

これね、親が不安になるのは当たり前やん、って思うんです。

だって学校は行くもの」という社会通念があるんですから。

しかも、学校とは、公の学校だけを指しているんですから。

 

まだまだ学校以外の学び(の場)は知られていない(認められていない)いま、

多くの方々が、「学校教育」という枠に、強くとらわれてしまっています。

 

問題は不登校にあるのではない

小学校・中学校、特別支援学校小学部・中学部ではなく、

オルタナティブスクール
フリースクール 等」
「ホームエデュケーション」

といった学校で学んでも、公の学校以外は「不登校」扱いになるのが現状です。

 

もし、

「公の学校(一条校)に通う」
「オルタナティブスクールに通う」
「フリースクール等に通う」
「ホームエデュケーションにする」

など教育の対等な選択が認められていて、

社会の見解もまた、どんなタイプの学校に行くのかは、子ども本人の自由となっていれば、「学校に行かない、行けない、行きたくない…」への不安は生まれません。

 

子どもが学校に行けない/行かない/休みがち、、、となると、親はそれを「不登校の問題」として捉えます。

学校の先生も、それを「不登校問題」とします。

 

けれど本当は、問題は不登校ではありません。多様の教育が認められていないことが問題なんです。

親自身が過ごした子ども時代の環境とか、いま現在のあなたの育て方のせい、ましてや子どもが原因、なのではありません。

ここに親や大人が気づいて、意識を「不登校問題」から「教育問題」に変換させていくことが、とてもとても大事です。

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子どもは「学校」の抑圧性に辟易している

以下は LINE@ に届く 子どもたちの声 の一部です(小中高生)。

  • 学校に行く意味がわからない
  • 先生の授業を受ける意味がわからない
  • 授業がつまんなくて我慢できない
  • 先生がウザい
  • キモい
  • かったるい
  • 声が小さくて聞こえない
  • 先生の書く字が読めない。読める字を書いて
  • 何回言ったらわかるんだ、って(先生は言うけど)一回でわかるようにしろよ
  • もっとわかりやすく教えて
  • 進むのが速すぎる
  • ほかの先生にかわって
  • 教科書にのってることを先生は言ってるだけ
  • 眠気との戦い
  • 時間の無駄
  • 人生の無駄
  • 怠い
  • 先生の言葉遣いが汚い
  • 大きな声をださないで
  • 暴力的な音をださないで
  • 物を雑に扱わないで
  • 生徒相手に威張らないで
  • 点数で人を判断しないで
  • まじめにやれ! ってお前がな
  • 宿題いらない
  • テストいらない
  • 生徒といい関係になる努力をしてほしい
  • 給料もらってるんだよね?
  • 恥をかかすのが仕事?
  • 先生何様?
  • 先生、もう帰るね
  • etc

 

学校批判、授業批判はつづきます。

これらの意見を尊重できる先生は、どれぐらいいるだろう?

「権威・権力」を批判することの大切さを説く先生って、どれぐらいだろう?

多くは、怒ったり、否定したり、落ち込んだり? なかには泣き出してしまう方もいるかもしれませんね。

 

民主主義教育であるはずの学校で、授業が権力関係にもとづいて行われていることに気づくべきです。

先生は「権力」を捨てることです。

主体は、生徒(と保護者)にあるんです。このことを、現行の教育制度は忘れています。

 

[box class=”green_box” title=”関連記事” type=”simple”]デモクラティックスクール・サドベリースクールは、よく「ぶっとんでる」なんていわれるけれど、なんにもぶっとんでなんてない。

学校で人権という概念を根づかせないで、いったいどこで根づかせられるんでしょうか?

>>> 『 サドベリースクールにある教育のすがた

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子どもには自分が生きたいように生きる権利がある

通知表をなくし、通知表が「入試」と一切の関係がなくなれば、不登校をする子どもの数はもっともっと増えるんじゃないでしょうか?

「不登校になった子どもを助ける」って、なんなんだ? って思う。

「不登校になった子」を助けるんではなくて、登校・不登校関係なく、子どもは自分が生きたいように生きる権利があること、そのことを大きく伝えていきませんか。

 

大人は、支援とか応援とかいう形で、社会的弱者にあたたかい声をかけてやることが好きだ。
でも、その行動こそがときどき「弱者」をつくりだしていることには、あんまり気づかない。
子どもは気づく。

⇑ ⇑ は、冊子『ありのままで 〜 しあわせな不登校のすごしかた 〜』に寄稿した「歩く花」の冒頭ですが、

冊子のご紹介、および、「歩く花」全文はこちら ⇓⇓ に掲載しています。
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大人が支援をすればするほど、子どもたちの声は消えていきます。

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差別から自由になる

LINE@ に届いた 子どもたちの声 は、直接、教室で、先生にむけて発せられるようにならなきゃいけない。

 

そのためには、先生には先生の役割があり、親であるわたしたちにはわたしたちの役割があります。

わたしたち親の役割は、わが子を、自律ある子どもに育てていくこと。

親の権威・権力を捨てて、子どもが自由に自分を表現すること、自由に行動することができる環境と関係を家庭で築き上げることです。

子どもが親に意見を言える、言い合える関係になること。

 

で、そのためには、自己をとりもどして、

母と娘。親の支配から脱して自由になろう! 』の記事でも書いたように、「やさしい娘」から「しあわせな娘」にならなきゃいけない。

[box class=”blue_box” title=””] 「話し合い」をテーマにした回を含む、勉強会3本の動画をセットにした「ヨコの3部作・保存版」では、「やさしい娘」から「しあわせな娘」になる、その根本のところを学んでいます! みんなしあわせになっていこう。

>>> 子どもとヨコの関係に! 映像で学ぶ「ヨコの3部作・保存版」

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個々の人格と、学ぶ権利を、尊重した場が必要です。

不登校が問題、ではないのです。

差別をなくそう! なんて言いながら、現行の教育には選択の自由はなく、学校は今日も成績をつけているのだから。

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今日の本

バカをつくる学校/ジョン・テイラー・ガット

集中力を育てない「チャイム」、対立させる「クラス分け」、敗者だと自覚させる「競争」、階級を意識させる「成績評価」、自分の頭で考えない人間の生産工場…それが義務教育。日本の教育もまるで同じ惨状だ!!ニューヨーク州最優秀教師の全米覚醒のベストセラー。

[amazonjs asin=”4880862037″ locale=”JP” title=”バカをつくる学校”]

 

民主主義と教育/J. デューイ

教育とは直接的な経験から出発し、これを絶え間なく再構成・拡大深化してゆく過程である。従って、それは子どもや学校の問題にとどまらない。とすれば民主主義社会における教育とは何か。教育に関する在来の学説をこの観点から根本的に洗い直し、デューイ自身の考え方を全面的に展開し世界の教育界の流れを変えた20世紀の古典。

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