こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山 海琳 です。
悩んでいるときは、悩む、という作業しかできません。
わたしたちは、はじめから答えを持っている。
なにかを解決・解消するなら、悩むよりも、答えを見つけ、取り出せるようになろう。
もくじ
やめちゃった話
前にこんなことがあったので、
↓↓↓ 約2時間後 ↓↓↓
ずいぶん間が空いたけど、このとき思っていたことを書きます。
悩んでいるうちは問題は解決しない
世の中いろんな悩みがあるけど、わたしは、悩むっていう経験があんまりないんですよね。
それは、なんか困ったことが自分には起こらないってことじゃなく、悩むという段階をあんまり必要としないってこと。
ここでいう悩みってなにかというと、物理的な問題というよりは、考えようや心のもちよう、自分の行動だけで解決したり解決しなかったりするようなもののことです。
もちろんすべてを例に出すことはできないけど、
「反りがあわない上司/仕事相手」とか「仕事をやめたい」とか、
「険悪な夫婦関係」「どうにも困った友人のこと」、
「体型のこと」「性格のこと」、「将来への漠然とした不安」とか、
はたまた「学校に行けない自分」「学校に行けないこども」とか。
悩むことで答えを出すものだと思うかもしれないけど、悩んでいるあいだっていうのは、悩むという作業しかできない。
悩むっていうのは、解決をしたり、答えを出す行為そのものではないと思うんです。
答えを遮っているもの
わたしたちは賢くて、問題が問題じゃなくなる「答え」にあたるものを、はじめからわかっている。たいていの場合。
なのになぜ悩むかというと、その答えが、目に見えないからです。
答えはとっくに持っているけど、何本もの木や枝やに阻まれて、見えない。見えていない。
ちょっとした(根深い)感情とか、正解/不正解とか、固定概念とか常識とか、評価されることとか、そういうものが、木のかたちをしている。
木を眺めてうんうんと唸る。練り歩く。
林のむこうにはずっと前から答えがあるけど、見えないから、林を眺めながらぐるぐると同じところを歩くしかない。
それは枝をかき分けて進むことでも切り倒すことでもなんでもないんだけど、必死に歩くあいだ、なんとなく「やってるぞ」って感じがしませんか。疲れるし。
「悩む」って、そんな状態のことじゃないんだろうか。
自分のための答えを選ぼう
問題とか、障害とか、困ったことを解消するときにやることは、答えを出すことじゃなくて、(もともとある)答えを見つけて取り出すってことです。
根をはった感情や正解/不正解、固定概念、常識を介さずに、あるいはそれらをちょっとかき分けて進んで、自分が持っている答えを。
その作業は悩むこととは別の作業だし、なにかを悩むほどやみくもなことでもありません。
いろんなことに制限を受けたり、身近な誰かや通りすがりの誰かや社会からの評価に頼っている自分が、ほんとに自分のための答えを出せるものだろうか? 悩みはいつも自分のものなのに。
鈍くならないと生きづらい世の中かもしれないけど、わたしたちは本来どおり、賢いままでいいんだと思う。
今日の本
「他人の目」が気になる人へ 自分らしくのびのび生きるヒント / 水島 広子
「友人が少ない人、つまらない人と思われたくない」
「みんな自分のことをブスだと思っているに違いない」
「キャラを演じなくては嫌われる」「メールには即返信しなくては」……。
現代人はなぜこうも「他人の目」を気にするのか?
要因となる“プチ・トラウマ”とその正体、克服法を精神科医が語る。
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