こんにちは、AI-am(アイアム)のよっぴーまりんです。
わが子が不登校をするようになって、親があたふたしちゃうのは、「初めての経験だから」に尽きます。どんなことでもそうですよね。初めてのこと、未知なことには、うろたえてしまう。
こどもが学校に行けなくなったとき、多くの保護者はまず学校に相談するけれど、学校は、「その問題は学校にあるんです」とは言いません。
親がしんどいと、こどももずーっとしんどいまま。親が安心するためにも、「不登校」の相談は学校だけではなく、四方八方、多角的にやるのがいいと思います。
もくじ
初めての「不登校」だから不安になる
わが子が不登校をするようになって、親があたふたしちゃうのって「初めての経験」だからなんですよね。
仮にこどもが4人いて、4番目のこどもが「学校に行かない」と言い出したとします。
けれども、上の3人の子どもたちも 一条校* に行かず、それぞれが各自の好奇心、ペースでもって学び、健やかに日々を過ごしていたとしたら、どうでしょうか?
うろたえて、不安でたまらない気持ちから、担任の先生や校長先生に「どうしたらいいですか?」「どうなるんですか?」と「不登校」そのものについて相談したりはしませんよね。
※一条校…学校教育法第一条で定められた学校(みんなが知っている一般的な学校)
上の子3人は一条校に登校していて「不登校」とは縁がなかったところに、4番目のこどもが「学校に行かない」と言い出した。あたふたしちゃうのは、このときなんですよね(1人目のこどもや、ひとりっ子のこどもの場合も同じです)。
それは「初めての経験」だから。
はじめて家を建てる人は、工事の良し悪しを判断できない
そんな「初めての経験」って、家を建てたり、外構の工事をお願いしたりするときと似ているなあって思います。
わたしたち庶民にとって、家を建てる「経験」って、多くは1度きりじゃないですか(わたし個人はいまだ経験なしです〜)。
住宅建設会社(ハウスメーカーや工務店)が単価を上げずに利益を得るためには、材料費と施工費を下げるのが妥当な方法です。
そして、そのお客さんの大半は「初めて家を建てる人」。工事の良し悪しを判断する目を持ち合わせていません。
飲食店をはじめ食材やお惣菜、日用品などなど、日常的に購入・使用するものであれば、「安すぎない?」「おかしくない?」「どんな材料を使ってるの?」「どんなところで生産してるの?」と考えられるけれど、「家を建てる」ははじめての経験。
そして大半は1度きりだから、住宅建設会社の方の言われるがまま「ふむふむ、そういうものかあ」となる。
「不登校」を相談する親に学校が言うこと
こどもが学校に行けなくなったとき、多くの保護者は、まずは学校に相談するんですよね。
でもって多くの学校は、学校に来ないことを問題視すると同時に、その問題は学校にあるんですとは言わない。
あたかも家庭のせい、親のせい、なんなら母親のせい? と受け取れるようなことを言います。もちろんすべてがそうではありませんが、学校同様、多くの学校カウンセラーに対しても注意が必要です。
家を建てる場合、外構(エクステリア)はオーダーです。どんなに簡単な工事であっても、どれも、いつも、形やサイズがまったく違う「敷地」と「建物」に合わせて、毎回内容の違う工事を行うからです。
それって、こどもも同じ。どの子も違うし、状況や環境も違います。それなのに、いまだに一括りにされている。とくに「不登校」はそうですよね。うちの子が不登校で……と相談すると、「不登校はこういうものです、だからこうしましょう」ってね。
「不登校でも大丈夫」という言い分も同じです。何が、どう、大丈夫と言えるのか?
その親の子どもが大丈夫だったとしても、あなたとわたしは違います。あの子とその子は違う存在だし、もちろんこの子だって違っています。
仮に大丈夫だったとしても、「不登校でも大丈夫」と一括りにできる理由にはなりません。
どっちの水が甘い?
「初めて経験する問題」。
そのひとつである「不登校」は、その問題が発生したところ(多くは一条校)に文句なり、泣きごとなり、相談なりをしに行くと、そこが持つ価値観に基づいて「こっちの水は甘いぞ、あっちの水は苦いぞ」と言います。
するとわたしたちは、マイホームを建てるための見積もりをとっている人のように「ふむふむ、そうなんだ」となってしまう。
だからこそ、「不登校」に関して「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」と異なることを言っている人にも、相談してみるのがいい。
そしてさらに言えば「こっちの水もあっちの水も苦いぞ」と言うところと、「こっちの水もあっちの水も甘いぞ」と言うところ。両方の水を飲んだことのある人にも相談してみるのがいいな、と思います。
そもそも「水」自体を疑ったり考えたりしている人の話を聞いてみるのも、いい経験です。
多角的に相談することは、相見積もりをとることとも似ています。それらを参考にしてはじめて、判断する目を持つことができ、考えやすくなる。
親の価値観や不安で、こどもをねじ曲げないために
住宅建設会社が提示する外構の金額は高くないか? と思って、外構だけエクステリア専門の会社に見積もりをお願いしてみる。
そこで「この住宅会社さん、高くないですよ。うちでも同じくらいの料金になりますね」と言われれば安心するけれど、成果主義におかされているわたしたちは、中身の問題(過程)に目を向けることを忘れています。
料金だけを見て、中身の材料費や施工費まで吟味しない。そもそも、過程の重大さにとんと疎い。
建築業界の父のもとで育ち、自らも建築業界に携わったよっぴーでも、誠実な仕事がされているかどうかを外から見分けることは非常に難しいです。
こどもがちゃんと学校に行って、ちゃんと学校生活に馴染んで、ちゃんと大学も卒業すれば安心。こどもに対して、そんなに失礼なことはありません。
こどもに選択肢を与えすぎるのは問題?
ネットショッピングなどでも、選択肢が多すぎることで逆に悩みが増える、ということがあります。見積もりをとればとるほど悩むから、はじめから見積もりの数を絞る人もいます。
同様に、こどもに対しても「選択肢を与えすぎるのは問題だ」という考えがありますよね。
でも「不登校」について保護者が四方八方に相談をしてみる場合、選択肢を広げているのは親のほうで、親が考える人生についての道幅を広げているだけです。
それなら、広ければ広いほどいいですよね。「うちの子が道を外れた」と思うのは、親の考える道が狭かったからです。
その道をぐいぐい広げて、親が一方的に「こどもに選択肢を与える」のではなく「子ども本人の考えに干渉しない」という環境さえあれば、そもそも「選択肢を与えすぎるのは問題だ」なんて問題は起こりません。
もちろん、こどもから求められたことを親は援助しますが、だからこそ親には「安心」が必要なんですよね。その子の考えや選択を、親の価値観で、「不安」で、ねじ曲げてしまわないように。
「不登校」を多角的に見ていこう
こどもさんが学校に行きたがらなくなったときや行かなくなったとき、行けなくなったとき、多くの親は、担任の先生に相談をもちかけるかと思うんです。当然のように。
そこで担任の先生が、学校に行きたがらない、行かない、行けない児童・生徒、および保護者に対して、「それは学校に問題があるからです」「『申し訳ない』では済まないことです」「早急に然るべき解決策をとります」といったことを述べて頭をさげられ、
「担任の僕/私をはじめ、校長・教頭、スクールカウンセラーやソーシャルワーカーなど学校関係者以外に、親の会などもあります。親の会というのはかくかくしかじかで、これは親の会の一覧表です」てな感じのことを言ったら、
“学校は行くところ” と思い込んでいた保護者が食らう一発目の衝撃は、いくらかはやわらぐかと思うのです。
わずかばかりでもやわらいで親が帰宅すれば、息を潜めていたこどもの呼吸が、いくらかはやわらかになると思うのです。
こどもさんが学校に行きたがらなくなったときや行かなくなったとき、行けなくなったときは、「親の会」等を訪ねてみられては? って思います。
「歩く」という字は、「少し」「止まる」と書くんですよね。
「無茶」には、お茶が無いんですよね。
親の会へ歩いて行って、そこでお茶を飲みましょう、って思います。
大切なのは、親であるあなた自身が安心すること。
そしてその安心は、同じ経験をもつ人たちと気持ちを共有しあうなかで、不安がほどけていく先にあるものだから。
親が楽にならなければ、こどももずーっとしんどいままです。わざとらしくテーブルに本を置くなら、「不登校が楽になる本」ではなく「おいしいお茶の淹れ方の本」を。
親はこどものために、「不登校」を多角的に見ていきましょう。お茶を飲んでひと息ついて、中心は、いつもこどものままで。
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