こんにちは、AI-am(アイアム)の よっぴー です。
絶賛イヤイヤ期だというこどもに出会いました。
「魔の2歳児」「恐怖のイヤイヤ期」「やだやだ期」「第一反抗期」? “親や大人はこどもを思い通りにしていい” という前提をもつ専門家の対応や対処策には、こども蔑視にもほどがあります。その傲慢、こどもをなんだと思っているんだろう。
異なる存在どうしである親と子が、関係を築いていく。
イヤイヤ期は、自己教育のはじまり期です。
もくじ
「魔の2歳児」「恐怖のイヤイヤ期」「やだやだ期」「第一反抗期」?
「イヤイヤ期」の検索結果1ページ目のサイトを一通り読んでみたところ、(一箇所を除き)どれも超ムカムカ。自分が2歳のこども(当事者)として読んでみてよ、むかつくったらありゃしない。
親が、イヤイヤ期と呼ばれる現象のこどもを目の前にして、育児をどうしたらいいか分からず困ってしまう、、、ということに腹が立つのではないです。
専門家や、幼児教育者、子育て支援に携わる方などの捉えように取り込まれていくこどものことを考えると、たまらない気持ちになるんです。
イヤイヤ期は、2歳ごろから始まり5歳ごろまでには収まる場合が多いようです。
収まる? イヤイヤ期は病気かい! って言いたくなる。
イヤイヤ期ってなに?
イヤイヤ期というのは、保護者や保育者に身の回りのことをしてもらわないと生きていけなかった赤ちゃんが、その受け身(受動)の態勢から、能動へと、勢い盛んに活動していく自己教育のはじまり期です(注:身の回りのことをしてもらわないと生きていけない赤ちゃん時代も、生まれたその時から自己教育ははじまっている)。
その時期のこどもに対して、親が自らの考えや都合、期待(「こうあるべき」「こうあってほしい」という要求)をもち、こどもに叶えてもらおうとするとき(こどもからしたら押し付けられたと感じたとき)、こどもは「イヤ」を示します。
こどもは、独創的に実験・研究したり、創造したりして、自分が生きていく世界の足場をかためていく。その自発心を奪われたとき、そしておとな都合の「時間」や「成果主義」が介入して、命令はむろん、指示や提案などの干渉をされたときなどに、こどもはそれを拒否する。
だれだって、おとなだって、指図や命令されて服従を強いられたりするのは好きじゃない。こどもだっておなじです。
「魔の2歳児」「恐怖のイヤイヤ期」「やだやだ期」「第一反抗期」、、、こどもをなんだとおもってるんだろう? こども蔑視にもほどがあります。
イヤイヤ期のこどもへの対応
イヤイヤ期のこどもへの対応については、専門家の答えとして以下のようなものがありました。
※注:赤線はわたしが引きました。
すんなりおもちゃを譲れないお子さまが「もっと遊びたい、譲りたくない」という気持ちと葛藤しながら切り替えができた時は、「もっと遊びたかったよね。でもお友だちに譲ってえらいね」と声をかけて、気持ちに寄り添いながら具体的に褒めることにしています。
ちゃんと褒めてあげることで、そのやり取りを見ていた他のお子さまたちも「どういう行動をするのが良いのか」を知ることになります。
複数の解決策を提案して子どもに選ばせたり、「どうしたらいい?」と尋ねて考えさせたりしながら、こっそり手助けを。
イヤイヤ期のこどもは、まだ言葉が発達していないため自分の気持ちをじょうずに伝えられずに、「イヤ」と言ったり身体の動きで示したりする、と専門家の方はいいます。
で、イヤイヤ期に困っている親への答えは「だから自分の気持ちをまだ言葉にできないこどもの、その気持ちや、身体の中に流れている感覚を、すこしでも分かろうとしましょう」「『イヤ』と言えることは非常に大事なことで、おとなになっても必要不可欠大事なことよ」といったものではなく、
赤線を引いたところに露骨に表れているように、結局のところは、親の思うように、親にとって都合のいいように、こどもに親の言うことをきかせるにはどうしたらいいか? こどもを誘導するにはどうすればいいか? というもの。
それは、親や大人はこどもを思い通りにしていい、という前提があるからでしょう。
その前提があること、その前提があることに気づいてすらいない(ほんとは知ってる?)傲慢さに腹が立ちます。
こどもの気持ちや、身体の中に流れている感覚をすこしでも分かろうとしていくには、期待は暴力なんだってことを知り、「こうあってほしい」という要求を手放していくことでしょ?
にもかかわらず、社会的課題でもあるものをこどもに(また親にも)帰しています。
「すいません。この子、イヤイヤ期で」
「イヤイヤ期」と検索したきっかけは、イヤイヤ期と言われているこどもと出会ったから。
スーパーのフードコートで手を洗おうとおもったんですね。で、わたしが手洗い場に行ったとき、先客に2歳くらいのこどもがいて、親に「ちゃんと手を洗え」と頭をコツンとされて、手を洗いはじめていました。
そこにちょうどわたしが来たから、親はこどもに「もう洗わなくていいから」と言い、その子は「イヤ! ちゃんと洗う」と言いました。
心のなかでわたしは「ちゃんと洗えって言われたもんな」とおもいながら「あ、順番ですから」とその子に言いかけたら、親御さんは「すいません、イヤイヤ期で」と言った。
こども、たまったもんちゃうなあ、っておもう。
「ちゃんと洗え」って言ったのに、誰か(わたし)が来たとたん、ちゃんと洗うことよりも相手を待たせないようにすることを優先する。
こどもに手を洗わせたかったのなら、あとから来た人には(なにか言うとしても)「すいません、待ってくださいね」でいい。
なのに、手のひらを返すように「うち退けますんでどうぞ! ほら、早く退きなさい、いつまで洗ってんの」みたいなのって、自分がこどもの立場だったら腹が立たない人なんていないんじゃないかな。
でも、そういうことを親はやってる。こどもが与えられた屈辱を顧みることをしないで、おごりたかぶって、人をあなどる。
こどもが「イヤ」って言うの、そりゃあわかるな。
イヤイヤ期はこどもの現実を教えてくれている
前回の記事で、「当事者であるこどもが教える現実を、ないものにしない社会にしていくところからはじめませんか?」と書いたけれど、こどもの現実である「そんなのヤダ!」を教えてくれているのが、俗に言う2歳のイヤイヤ期だとおもう。
朝からイヤイヤと言われると心が折れちゃうし、一日中こどもと一緒でストレスもたまる。出勤前からじゃ職場にも遅れちゃう。
平日日中の協力者は必要だし、産前産後休業や育児休業のほか、こどもの健全な育ちには「イヤイヤ期出勤休暇」だって必要です。
「こどもが着替えるのをイヤがっていて」と遅れる理由をウソつくことなく伝えられる、そんな会社があちらこちらでできてほしい。そんな社会にならなきゃいけない。こどもを見下して礼に欠くのではなく。
上述の手を洗う場面でだって、手のひらを返さなくていい社会にしていかなきゃいけない。
自分だけが感じる、感じられる感覚はだれにも分からない。
それを分かってもらえなかったり、逆に「ああ、ママも分かるよ」なんて安く粗く扱われるから、だからイヤなんでしょ?
この「イヤ」をわすれた者が、その感覚の最中にいるにんげんと添う。
それが、異なる存在どうしである親と子が関係を築いていくということ。
例えば、掃除をしたいのにおもちゃ遊びをやめようとしない時は「お掃除したいから、おもちゃを片付けて欲しいな」などとお子さまに自分の気持ちを伝えるようにしてみましょう。そうすると、自分の気持ちと相手の気持ちが違う場合もあるのだとお子さまが気付くことになります。自分の都合だけでものごとが進まない時もある、と知ってもらうことで、相手を思いやる気持ちや自分の気持ちの折り合いの付け方が身についていきます。
↑の幼児教室「ドラキッズ」のように、その逆バージョンで親を教育するこどものための教室があったとしたら、「2年目の親との上手な付き合い方」にはこう書かれてあるんだろうな。
[aside type=”boader”]
おもちゃ遊びを続けたいのに掃除をしようとする時は「おもちゃ遊びを続けたいから、掃除はあとにしてほしいな」などと親さまに自分の気持ちを伝えるようにしてみましょう。そうすると、自分の気持ちと相手の気持ちが違う場合もあるのだと親さまが気付くことになります。自分の都合だけでものごとが進まない時もある、と知ってもらうことで、相手を思いやる気持ちや自分の気持ちの折り合いの付け方が身についていきます。
[/aside]
こどもが2年間親と連れ添うてきたということは、親もまた2年間連れ添うたということ。その子の2年間にすこしでも近づきたい。