こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
ねことの暮らしと、こどもとの暮らしは似ているなあ、とおもいます。
ねこを飼っている人や、飼ったことがある人は、こどもとの関わりもねことのようにすれば、「子育て」はとってもラクになる。
ねことの暮らしと、こどもとの暮らしは似ている
ねこと暮らすようになってつくづく思うのは、「ねことの暮らしと、こどもとの暮らしは似てるなあ」です。
お家にねこがいる方なら「そう、そう!」ってなるとおもうのだけど、ねこと暮らしていて、ねこが自分にとって困ることや、手を焼かされることでも、腹が立ったり、イライラしたりしないじゃないですか。
「なんでこんなことするの💢」とか、「何回言ったらわかるの💢」とか言って、ねこを怒ったりしない(しつけない)。
『小さな天才の育て方・育ち方-小・中・高に通わず大学へ行った話』でわたしは、「こどもを怒ったことがない」(叱ったり褒めたりもない)と書いています。
だもんで、そのことについてトークライブ等で「どうしてですか?」や「どうしたらこどもを怒らなくなりますか?」と訊かれるのだけど、それって、ねこに対して怒らないのといっしょでした。
ねこもこどもも、しつけは要らない
甘えたいときに甘えてきたり、要求があるとき自分の要求を伝えてきたり、、、
そうかとおもえば、溶けだした春のように満足して駆け出していったり、、、
「育ち」を見ていると、うれしい。
ねこもこどもも、しつけは要らないですね。
怒らずに話せばいいだけで、こどもに対して怒るのは、百害あって一利なしです。
[box class=”yellow_box” title=”どうしてこどもを怒ってはいけないの?”]
どうしたらこどもを怒らなくなるか、、、
どうしてこどもを怒ってはいけないのか、、、については、オンラインスクール「オヤトコ学校 いい舟」で、根っこから勉強しあっています。
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たとえば、マスク
ちょうど昨日、こんなことがありました。
布マスクの、耳にかけるひもを一部分、わが家の吾輩さん(ねこ)に食べられちゃったんですね。↓↓
吾輩は、ひもが大好き!
登山家、ジョージ・マロリーの「なぜ、山にのぼるのか。そこに、山があるからだ」じゃないけれど、吾輩はそこにひもがあると食べちゃいます。
そのことを知っていながら、ついうっかり机のうえに出しっぱなしにしてました。
こんなの、「なんでこんなことするの💢」と言って怒るようなことではないじゃないですか。
わたしのすることは、吾輩を怒ることではなく、説教したりでもなく、ひとえに「置かない」。これに徹することです。
たとえば、救急車
「何回言ったらわかるの💢」には、こんなこともありました。
先日、息子の具合がわるくなり、救急車をよびました。
いつもは、スーパーに行ってくるね、今日は zoom があるよ、あの音はヘリコプターの音だよ、など、吾輩に逐一話すんだけど、このときリビングでぐっすり眠っていた吾輩に、「いまから救急隊員の人が家に来ること」を話すのをすっかり忘れていた。
吾輩が受けるであろう恐怖を、すこしでも軽くすることも忘れていた。
救急車が止まり、リビングで横たわる息子へ向かって、ドタドタと危急の風が吹いたとき、吾輩はパニックを起こした。
(ねこと暮らすようになってからはじめての救急車で、このときになってやっと、吾輩には事前に、いつものような穏やかさで事情を話して、別の部屋に移ってもらわなきゃいけなかったことに気づいた)
幸い、吾輩は息子の部屋に飛んで逃げていったので、そのまま部屋の扉を閉めた。
息子とわたしが乗った救急車が去ったあと、家にはまりんさんが残り、
まりんさんはすぐさま息子の部屋に行ったが、吾輩がどこにいるのかまったくわからない。
名まえを呼んでも、返事はない。
ベッドの下も、ふとんのなかも、押入れも、、、どこをさがしてもいない。
吾輩さんは用心深いねこで、保護されたとき、近くに吾輩のきょうだいとおもわれる仔猫たちが、あたまを食べられたりして死んでいたそう。
きっと、どこかに隠れていたんだろう。その警戒心の強さが吾輩のいのちを救った。
なんども、なんども、名まえを呼びつづけていると、やがて吾輩がまりんさんのまえに姿をあらわした。
まりんは抱きしめ、やさしく、やさしく、事情をはなした。
翌日のこと。
窓のむこうで救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎていった。
すると吾輩がまたこわがった。
こわがって、まりんの胸にからだをうずめた。
まりんは言う。
「こわいね、こわいね」と。
「だけどあの救急車はうちには来ないよ。今度もし、また救急車がくるようなときは、そのときは先に吾輩に話すからね」
その日、サイレンを鳴らした救急車が、何度か通りすぎた。
そのたび、おなじことがくりかえされた。
その翌日も、救急車はいそがしくしていた。
吾輩は、薄れてはきたが、それでもまだ恐怖に敏感でいた。
そのたび確かめ、甘え、寄り添い、偽りのないことばを交わす。
数日後。
ふと、救急車の音がきこえてきても、以前のように、いささかも動じない吾輩にもどっていたことに気づいた。
こどもは日々に新しい
このとき、おもったんです。
ねこもにんげんもおなじだなって。
相手(こども)にわかるようにきちんと説明することで、
相手が安心するまでしっかりとむぎゅ〜、することで、こどもの魂に「恐怖」は残らない。
まりんさんは、一度だって吾輩に「だいじょうぶだよ」とは言わなかったんですね。
「救急車なんて、こわくないよ」とは言わなかった。
よくある光景に、
注射をこわがるこどもに、親が「こわくないよ」「痛くないよ」「だいじょうぶだよ」と言っているのがあります。
パパとママがけんかをしていて、こどもが「どうしたの?」と聞くと、「なんでもないよ」「だいじょうぶだから、あっち行ってなさい」ってのもあります。
だけど「だいじょうぶ」かどうかを定めるのは、自分なんですよね。親でもだれでもないです。
「その時」抱いた恐怖を、こども自らが「だいじょうぶ」とおもえるまで、お母さんのやわらかな胸(精神性や抽象的な意味も含む)にいさせてあげればいい。
こどもにイライラしたり、「子育て」がどうしていいかわからないのって、「ねばならない」思考が働き、
「子育て」しなきゃっておもうから。導こうとしちゃうから。
ねこと暮らすように、こどもと暮らそう。
ふと気づくと、わが子は安心して、また一足先に明日へ踏みこんでいきます。
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