こんにちは。
AI-am(アイアム)の
星山 海琳 です。
『 不登校になって伸びた7つの能力 』の本文、よっぴーが書いたことから考えました。
不登校をしていたわたしは、かつて「将来」とみなされた現在を、「それなりに」過ごしています。
それは、安心や不安にたよらない、現状を「わたしのもの」にしてしまわない言葉です。
今その「将来」を、楽しく、心地よく、それなりに
わたしたち、よっぴーまりん(吉田晃子・星山海琳)の著書『 不登校になって伸びた7つの能力 』の本文を、何回かに渡って(まったく未定!)解説していきます。
第1回の今回は、
第1章・親が得したこと ①
「不安からの解放」p.23 より。
よっぴーはここで、学校に行かなくなりはじめた子どもに向かって、親がつい言ってしまっている5つの「心ない言葉」を「心ある言葉に言い換えよう」と書いています。
5つめの「心ない言葉」は、「将来はどうするの?」。
この文章は、こんなふうに締めくくられています。
将来より今日のいのちです。
その「将来」ってやつは、子ども自身が考えます。
小・中・高と行かなかったわが家の子どもたちは大きくなって、今その「将来」を楽しく、心地よく、それなりに過ごしています。
引用:『不登校になって伸びた7つの能力』p.23
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これ、本で読んでくださった方、安心しました? それとも不安になりましたか?
「それなりに」≒ 「ぼちぼちでんな」
最後の「それなりに」に、なんだか微妙な感じがした人もいるかもしれません。よくはないんだ、みたいな。
でも、この言葉があらわすものは、安心でも不安でもないんです。
この「それなり」って、ようするに関西弁における「ぼちぼちでんな」なんですよね(よっぴー本人には確認してませんが)。
関西弁の「ぼちぼち」を正しく翻訳するのはむずかしいんだけど、よく言われる「ものすごくいいわけではないが、ものすごくわるい状況でもない」「可もなく不可もない」、「それらの中間」といった説明は、「それなり ≒ ぼちぼち」の持つニュアンスとはちょっと違います。
言い換えれば、「まあ生きていればいろいろあるけれども、今日も米はうまいし、こうやって会話できているのもありがたいことだし、犬猫ものんきにしているし、こんなもんでしょう」、と、そんなところ。
不登校をすることはゴールを失うことではない
「ここに到達すれば成功だ」というゴールがなければ、人は成功者だとか幸福を掴んだとか、そんなことを強く意識する機会はないはずです(明確な成功は、同時に明確な失敗を生み出すんですが)。
掴めるものではなく、実感するものとして、わたしの達成や幸福はある。振り返れば今日までなんだかんだ生きてきたなあとか、こういう瞬間ってなんかすごく幸せだよね、とか。
不登校をすることは、この頼りがいのある明確なゴールへの道を失ってしまうことだと思われがちです。
でも、不登校をすることでほんとうに得るのは、もともとゴールなんて幻想でしかないと気づくこと。
いい/わるいの矮小化
「それなり」は、現状をいい/わるいで判断しない言葉です。
実際、日々にはうれしいこともあれば悲しいこともあるし、いくつかの視点を持てば、いい面だってわるい面だってあるでしょう。
学校で皆勤賞をもらっても、逆皆勤を達成しても。どんな人生を歩んでいても。
だいいち、わたしが幸福かどうかはわたしの主観ひとつだけれども、わたしの現状の良し悪しなんて、自分で決められることでもないと思う。
時間の流れの上に、「楽しく心地よく」過ごしているわたしがいる。
これをよいと捉えたり、わるいと捉えたりするのは、妙なコントロール精神の働きじゃないですか? 安心を信じたり不安にすがったりするのは、ずいぶん身勝手じゃないですか。まるで力の及ばない、アングルの多彩なものを、一枚きりの写真のなかに囚えるなんて。
このコントロールから離れたところで、喜びも悲しみも同居させたまま、一つひとつの出来事に対応しながら、良しも悪しも眺める。
そしてわたし自身はその環境を「楽しく心地よく」感じながら寝ては起きる、それが「それなり」に過ごすということです。