こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
親に「勉強しろ!」と一度も言われたことがない。
こどもに「勉強しなさい!」と言ったことがない。
…というご家庭に共通しているのは、こどもが「勉強嫌い」にならなかったってことだとおもいます。
しかしその「勉強」を、どこまでもしなかったら?
そこに評価がなければ、こどもは「勉強好き」のままで育ちます。
地頭のよい人に育っていきます。
もくじ
「もっと勉強しておけばよかった」
もっと勉強しておかないと、お母さん/お父さんみたいになるよ。後悔するよ。てなかんじで、
「もっと勉強しておけばよかった」と言う大人がいる。
「もっと勉強しておけばよかった」とその人は言うけれど、
教科勉強をもっとしておけば、いまある目の前の問題が解決するのか、というと、そうじゃない。
的確な表現は、もっと経験しておけばよかった、なんだとおもう。
そこをわかってて、
でも的確な言葉を考え、選びだすのがめんどいから、「もっと勉強しておけばよかった」という表現をつかっている人もいるんだろうけど、
けっこうね、まじにね、「もっと勉強しておけばよかった」の「勉強」は、教科勉強をさしている人もいたりする。
経験とはなにか?
もっと経験しておけばよかった の「経験」とは、なにか?
次から次、目の前に現れる「問題」を、
頭ひねりながら、
迷いまくりながら、
試しながら、
自分で考え、選択して、決断して、行動にうつしていく、その経験です。
失敗しながら、、、
笑われながら、、、
後悔しながら、、、の あの経験。
海外旅行に行くとか、自分で家を建てるとか、んな大きなことじゃなくって、
もっと、もっと、ちっちゃな、ちっちゃなこと。
目的のまえの、かたちもまだない目的の、ちっちゃなこと。
よい経験、わるい経験の違いは、臆病にさせられるか否か。
たとえば、教科書を忘れたとして。
「教科書を忘れました」と先生に言う。
先生は軽く注意して、「となりの子に見せてもらいなさい」と言う。
教科書を忘れたその子は、それに従い、何事もなかったかのように、時は過ぎる。という場面で、
(このあと先生の「はいはい、では37ページを開いて… 」なんて言葉とともに授業が始まっていく)
「教科書を忘れました」と先生に言うと、
「そっかあ。じゃあ、どーする?」と振られたらどうだろうか?
考えるよね。どーするか。
で、考えた(または、ひらめいた)ことを「言う」(伝える)よね。
で、そこで、そのとき、
その方法が、大人からみると、ずいぶんと滑稽であったとしても、
笑われない、
怒られない、
否定されない、だったらどう?
どう、おもいますか。
自分の「考えること」「言うこと」が、「間違っていないか」という他者からの評価基準におびえることなく、安心して考えていける。
考える力 は、ぐんぐん育っていく。
「言う」という行為もこわくない。発言力 もいきいき育っていく。(人前で話す「発言力」とはまた別のものです)
判断力 や 決断力 、 行動力 や 実践力 だって、どんどんたくましくなっていくのは、想像できるよね。
経験とはこういうこと。
あらゆる力をふるわせて、自分で足場をつくっていく。
それが、「ああ、勉強しとけばよかった」の勉強なんである。
(教科)勉強してたら、学べないのである。
自由学校=フリースクール
そういった、自分を生きる経験 。
次から次、目の前に現れる「問題」を、
頭ひねりながら、
迷いまくりながら、
試しながら、
自分で考え、選択して、決断して、行動にうつしていく、その経験を、
赤ちゃんは、
幼児は、
1日のうちで、何十回、何百回と繰り返している。
それが 学ぶ力 。
この力をじゃまされずに、自分で足場をつくってきた6歳のこどもは、
「教科書を忘れました」と先生に言うと、
「そっかあ。じゃあ、どーする?」と振られたらどうだろうか?考えるよね。どーするか。
の前に、
そもそも、「教科書を忘れました」とは先生に言わないだろう。
すでに 考えてる。どーするか。
すっごい 集中力 でもって。
躊躇いのない 独創力 でもって。
とね、もうひとつ、この例題で言うとね、
「教科書を忘れました」と先生に言うと、
「そっかあ。じゃあ、どーする?」と振られたらどうだろうか?考えるよね。どーするか。
でも公の学校教育の教室では、この子が自分のこたえが出るまで考える(考えさせてもらえる)ことは、なかなかできない。
人材力より、人間力が先! って人は、自由学校が向いている。
不登校だから、フリースクールへ。なんて発想じゃなく てね。
就学前後の年齢のこどもで、ぼくは/わたしは、自分のやりたいことより、やりなさいと言われたことをやるほうが好きです と言うこどもをわたしはまだ一人も知りません。
けれども、やりなさいと言われたことをやってきたこどもで、思春期ころになって、ぼくは/わたしは、どうしたらいいですか? と、他者軸の「正解」を求める人 は何千人と知っている。そういう大人も。。。
※『 たとえばプロフェッショナルな仕事をされている珈琲豆屋さんのように 』で書いたフリースクールの更新作業ね、週末も、いまも、がんばってるんですが、
各スクールのブログを読んでてね、民主主義のデモクラティックスクール・サドベリースクールではないけれど、
こういうスクールが(スタッフが)「 自分を生きる学校 」なんだよっておもうところが何カ所もある。
学校の勉強は、本人が必要としたときや、したい! となったとき、します。こども自ら。
たとえば、12年間の科目勉強を2ヶ月半でやったまりんさんのように。↓↓