ひとつの学校を選ぶということはひとつの生活を選ぶということ

am3こんにちは。

AI-am(アイアム)
星山 海琳 です。

 

洋服や食事といった生活スタイルのなかに、学校というものも含まれるはずじゃないかという話。

それならもっと「選ぶ」ということをしていいと思う。

教育が生活から切り離されている

以前、「学校に行けないことが問題なのではなく、学校を選べないことが問題」の記事で、

「8歳の子どもには、8歳用のサイズの洋服しか売りません」、
「8歳用のサイズの洋服しか着てはいけません」、
「身体にあわせるのではなく、洋服に合わせてください」

という例えがありました。

 

洋服や食事といったさまざまな生活スタイルとおなじように、教育や学校というものもあるはずなのに、なぜかまるっきり、圏外のことのようになっています。

もはや、洋服にも食事にも、疑問や意思を持っていないというひとが少なくないから、しかたのないことなんでしょうか?

 

選んでいるのか、選ばされているのか

WWD JAPANに掲載されたファッションデザイナー山本耀司さんのインタビュー(「23歳の記者から山本耀司へ37の質問」)。

山本耀司さんが好きで読みはじめたのですが、(いろんな視点で読むことができるけれど)これはもう、教育にもまるっきりそのまま言えることだなと特に思ったのが、

最近の女性たちは世界中、非常にダサくなっていると思う。一日に何回も、ファストファッションで買い物するなんて、少しは疑問持てよ、と言いたい。「一着の服を選ぶってことは1つの生活を選ぶってことだぞ」って。

という言葉。

 

「一着の服を選ぶってことは1つの生活を選ぶってこと」というのは、「ひとつの学校を選ぶということはひとつの生活を選ぶということ」、とそのまま言い換えることもできると思います。

「一日に何回もファストファッションで買い物をする」ように、選ぶという思考さえないことも多いけど、みんなそれぞれに、あるひとつのものを選んでいる(選ばされている)ことには変わりない。

ファストファッションをほんとうに選んでいるひとって、どれくらいいるだろう。
いまの学校へ通うことを、ほんとうに選んでいるひとって、どれくらい?

 

疑問をもつ

まいにち服を着る。

まいにちごはんを食べる。

まいにち眠る寝具はたいせつだってよく言っている。

 

おなじ場所へ行くにも、どんな通りを歩くかで、なにもかもが変わる。

景色もにおいも、出会うひとも、風の吹きかたとか光の射しかたもちがう。

教育や学校もおなじこと。

 

そのひとつひとつに良し悪しがあるわけじゃないけれど、好き嫌いや、合う合わない、というのは絶対にあります。

でもそんな感覚はすっかりどこかに行ってしまって、ただみんなとおなじ手身近なものを自分も(気づかないあいだに)選んでいるというのは、こわいと思う。

 

なんのために、感じたり、考えたりすることができるんだろう、と、思う。