こんにちは、
AI-am(アイアム)のよっぴーまりんです。
なぜ、不登校は「ずるい」と言われるんでしょうか?
学校に行かないのは、ずるいことではありません。
学校が教える「みんな一緒」と、教えない「こどもの権利」。この問題が「ずるい」を生み、こどもたち、親たちを不自由にしています。
もくじ
「学校に行かないのズルいよね」
義務教育である小学校や中学校に登校をしているこどもが、不登校をしているこどもに対して抱く「ずるい」の感情。
ときには、直接、言葉になって出てくることもあります。
不登校をしているこどもさんの親さんや、オルタナティブ教育、親と子のヨコの関係などに関心のある親さんなどが集っている オンラインコミュニティ「お母さんのじかん365」でも、先日、こんな書き込みがありました。
ある時に息子が同じクラスの女の子に会って、
女の子「なんで学校来ないの?」
息子「勉強が嫌だから行かないんだよ」
と答えたらしい。その女の子は先生にその事を話して、なおかつ女の子グループ2,3人と「学校に行かないのズルいよね」みたいな話をしているようでした。
先生は話をされた時、その子達に「◯◯くん(息子)がいないところでズルいとか言わないで。もしかしたら何か事情があるかもしれないから」と言ったそうです。
そして先生は私に、うちの息子が「勉強したくないから学校に行かない」とは言わない方がいいよと言われました。
書き込みをされたこのお母さんは、先生に言われた「勉強したくないから学校に行かないとは言わないほうがいい」に対して、
それを言われて私は、「子供達が話してくれたんですねー」みたいな感じで返事したと思います。
息子に対して、言わないように言い聞かせますとか自分の意見は言いませんでした。
だって、別にどーってことないし(笑)
心の中では先生や学校が都合が悪くなるから、息子に言わせないようにしただけでは?と思いました。
とつづけられていたのですが、
学校に行かないことで「ズルい」と言われていい気持ちになるわけではないし、なかにはブルーな気持ちになるこどもさんや親さんもいらっしゃるとおもいます。
やりたくないことを我慢してやっているこどもたち
学校に行っているこどもが、学校に行っていないこどもに「ズルい」とおもうのって、妬みの気持ちを抱いたり、嫌だという思いを溜めこんだりしているからじゃないですか。
自分はやりたいことをやっているときに、(そのやりたいことを)やっていない人を見て「ズルい」とはおもわないですよね。
「ズルい」は、自分はやりたくないことを我慢してやっている(やらされている)ときに湧きでる感情です。だから、羨ましくって。恨めしくって。
その子は、自分だって嫌なのにこんなにがんばっているんだもん。そりゃあ「なんであの子だけ?」と苦しくもなります。
ぼくもがんばっているよ、わたしだってがんばっているよ。「ねえ、ほめてよ、わかってよ」と嫉みも生まれます。
「みんな一緒」が「ずるい」を生む
この妬み嫉みは、たんに個人的な問題というだけではなくて、構造的な問題も含んでいます。
それは、学校教育が植えつける「みんな一緒」の考え。
ほんとうに「みんなちがってみんないい」のなら、自分と相手を比べることはしないし、「ずるい」も生まれないですよね。でも、いまの世の中では、「みんなちがう」をなかなか許せません。
授業では、「みんなでこれをしましょう」「みんなでこれを覚えましょう」と一斉教育を施します。
「一緒」にならない子には、「みんなはできているのに、どうしてあなたはできないのかな?」。
給食では、「みんなは時間内で食べられているのに、好き嫌いもなく残さないのに、どうしてあなたは食べられないの?」。班でひとり食べられない子がいたら、班全体の昼休みがなくなることもあります。
休み時間では、「みんなで仲良く遊びましょう」「みんなは一緒に遊んでいるよ、どうしてみんなと遊べないの?」。
「とにかく、みんな一緒」の教育のなかで育つこどもは、すでに相手と自分が同じという前提に立っています。だからこそ、「ずるい」という感情を、考えかたを、こどもたちは身につけさせられてしまいます。
公教育が始まって、約一五〇年。学校教育はこれまで、ずっと変わらず、基本的に次のようなシステムによって運営されてきました。すなわち、「みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に勉強させる」というシステムです。
引用:苫野一徳/『「学校」をつくり直す』p.18
でも、「みんなで同じことを、同じペースで」が学校のシステムである以上、先生は、ついていけない子がいたとしても、どんどんと先に進んでいくほかありません。一斉授業・画一カリキュラムが中心の学校では、どのクラスを覗いても、ほとんどの場合において、授業についていけずに辛そうな顔やつまらない顔をしている子どもたちが一定数いるものです。
引用:苫野一徳/『「学校」をつくり直す』p.19-20
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学校が教えない、こどもの権利
そしてなにより、登校しているこどもたちは、「学校は行かなければならない」と思っています。
こどもには学校に行く義務はないけれど、親にはこどもを学校に行かす就学義務がある、だからこどもは義務教育の小中には行かないといけないと、思っている親さんもいます。
>>> 関連記事
保護者の就学義務違反にふれています ➡︎ 【不登校の親必見】前川喜平氏の学びの解体新書から読み解くホームスクールやフリースクールなど学校外の選択は違法ではなく憲法上存在し得ることについて
行くも行かないも、こどもが選択する権利を持っているということを、学校も先生も教えないんですよね。
冒頭で紹介した「お母さんのじかん365」の投稿でも、先生は「◯◯くん(息子)がいないところでズルいとか言わないで。もしかしたら何か事情があるかもしれないから」と言った、と書かれてありましたが、
そんなときに先生が「こどもにはこういう権利があるんだよ、だからあなたたちも休んでいいし来ていいんだよ」と生徒たちに伝えられたら、こどもたちは、「ズル」ではないと理解できます。
みんな知らないだけなら、みんな知ることができればいい。
【保存版】義務教育の意味と児童憲章「不登校」は法律違反ではなく学校に行かない子どもは義務教育に反していない
学校に行きたくないなら休んでよいという法律「教育機会確保法」は不登校してる子どもたちを応援する
「学校に戻すことだけがゴール」という不登校対応は即座にやめるべきだと私たちも考える
この「オヤトコ発信所」でも、何度も書いていることですが、こどもは学ぶ権利を有しています。
「わたしが行ってる学校、わたしは大好きなんだ」と言えるしあわせ
こどもたちに「ズルい」の感情が湧き出ないような教育制度へと変わっていってほしい。
情報も選択肢も増え続けているこの時代の、何千万人というこどもたちに対して、たった一つの教育では無理があることくらい誰でもわかります。
「個性を」「主体性を」と、言っていることとやっていることが矛盾する教育じゃなく、
いまある一つの教育にこどもが合わせるんじゃなく、
まさに個性や主体性のかたまりである、こども一人ひとりに合う教育が広がってほしい。
そして、誰もがいきいきと、こども時代を過ごしてほしい。
みんなが「わたしが行ってる学校、わたしは大好きなんだ」と言えたら、どんなに幸せだろう?
とにもかくにも、まずは知ること!
耳に入ってきたものだけではなく、疑問の目を育てながら、積極的に「知る」をやっていきましょう。
不登校をしている、多様な教育を選んでいるこどもの親たちも、受け身になるのでも攻撃的になるのでもなく、一人ひとりのこどもたちの育ちを守るために、教えあっていこう。
時代が開かれていくのをただ待っているんじゃなく、わたしたちにできることをやっていきたいとおもう。
第7回多様な学び実践研究フォーラムはオンラインにて開催
2020年9月5日(土)・9月6日(日)、「第7回多様な学び実践研究フォーラム」がオンラインイベントとして開催されます。
子どもの学ぶ権利や、多様な学びのありかた、教育機会確保法のお話などなど、国内外20以上の団体・機関が参画して学びあうイベントです。
各地のオルタナティブスクールのスタッフ・関係者の方なども登壇されます。
関心のある方なら誰でも参加できます。「知る」をたのしもう!
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