サドベリースクールを家庭に持ちこむことはできるか?

 

ammこんにちは、AI-am(アイアム)の星山まりんです。

デモクラティックスクール(サドベリースクール)は、家庭に持ちこめるか。

わたしはできないと思っています。

学校に行かなくても勉強はできるけど、学校の生活そのままを家のなかに移すことはできないことにも似ている。

しかもそれよりむずかしいのは、サドベリーには答えがないというところ。

 

デモクラティックスクール(サドベリースクール)の教育理念

デモクラティックスクール(サドベリースクール)の教育理念は、以下のとおりです。

  • 自分の好きなことを学ぶ
    子どもたちは自分で学び、成長することができると信頼されています。だからそれぞれが興味のあることをしています。
    子どもたちは「やりたいことをやる」ことで、その時々の最大限の学びを得ています。
  • カリキュラム&テストなし
    どんな形でも子どもたちがテストなどで評価されたり、大人からアクティビティについて先に提案されたりすることはありません。
    子どもたちは自分で自分のことを考えることができるからです。
  • 子どもの尊重
    子どもたちは大人から一方的に指示されたり、規制されたりすることはありません。
    子どもも大人も同じように一人の人間として大事にされています。
  • ミーティングで話し合って決める
    スクール全体にかかわることはミーティングで話し合います。みんなで決めて納得したルールは守りながら、自由にすごすことができます。
    スクールの方針・予算・スケジュール・人事なども子ども・スタッフ共に1 票をもって決定します。
    スタッフをだれにするか子どもたちが投票をするスクールもあります。
  • 年齢ミックス
    学年・クラス分けはありません。いろんな年の子ども達がいっしょに過ごす中で、たがいに教えあったり影響を受けたりしながら、多くのことを学んでいっています。

出典:デモクラティックスクール総合情報サイト・教育理念

 

家庭をサドベリスクールの代わりにすることはできないけれどもこの精神を家庭に、対人関係に、持ちこむことはできます

親子であることによって取り払えない甘えは残っても、親にスタッフのはたらきができなくても、この精神が家庭の軸にあるだけで、家庭は大きく変わります

逆にいえば、ホームエデュケーションでも、フリースクールへ通っていても、オルタナティブスクールに通っていても、学校へ通っていても、けっきょくは家庭の軸になる精神が子どもを、親子を左右する。

 

昨年出版になった本、『 小さな天才の育て方・育ち方 – 小・中・高に通わず大学へ行った話 』のなかでも書いた、小・中・高へ通わなかったわたしが、12年間の勉強を2ヶ月半で終えたというはなし。

 

あわせて読みたい

12年間の勉強が2ヵ月半?〜小中高には行かないで大学に行った娘の話.高認篇

 

これは、すごいことじゃありません。期間は前後するとしても、基本的には誰にだってできることです(その気になれば)。

でも、ほとんどのひとがそれは特別なことだという。
誰にでもできることじゃないという。

 

「特別」という認識の違い

この認識の違いはなんだろう、といつも思います。

どんなに考えてみても、やっぱり「小・中・高へ通わなかった子が、17歳のときに12年間の勉強を2ヶ月半で終えた」というのは特別なことではない。

むしろ「なぜ12年間もかけて勉強させるのか」という、学校教育のシステムに、ふしぎや疑問を抱きたくなります。

 

この出来事に(あるいはわたしに)「特別なこと」がもしあるとするなら、それは、それができる精神気力体力があった、ということです。

でも、これ自体はまだ特別じゃありません。
しいていえば、誰もが持って生まれてきた力になぜか蓋をされがちな今、それに蓋をされなかったことが特別なこと、ということになります。

 

それっておかしな話ですね。
「したこと(されたこと)」よりも「しなかったこと(されなかったこと)」のほうが特別になっている。

もともとあるものを奪わない、というだけのことが、今はなぜか特別なことになっている。

 

デモクラティックスクール/サドベリースクールは「なにもないところ」

わたしは以前通っていたデモクラティックスクール(サドベリースクール)を「なにもないところ」だと言ったことがあります。
設備とか、そういう話ではなく。

なにも用意されない、なにも準備されない。それは蓋をされないということでもあります。
なにもないところには、なんでもある

自分がなにもしなければ、なにもしないままでいられる。
自分がしようとすることには、(それが迷惑にならなければ)誰にも止められないし、否定もされない。

 

たったこれだけのことが、なぜか特別なことになってしまいました。それが一般的になった。

だから、「小・中・高へ通わなかったわたしが、12年間の勉強を2ヶ月半で終えた」ということも特別なことのように思われる。

 

わたしがデモクラティックスクール(サドベリースクール)を好んだのは、生まれたときから(生まれる前から)それと近い、ほとんど同じといってもいい精神が家庭の軸になっていたからかもしれないな、と今は思います。

子どもは、「どんな学校に通うか」を選ぶことはできるけど、家庭を選ぶことはできません。

家庭の軸になる精神は、親にしか選べない。

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