家庭のなかの多様をつくるのは「あなたとわたしは違うひと」

amam
こんにちは、

AI-am(アイアム)のよっぴー、まりんです。

 

親御さんからのご相談を聞いているとき、「共感・同感してもらいたい気持ちの強さ」を感じることがあります。

「そのペンとって」とこどもに頼んで「イヤ」と言われたら、怒ったり、むっとしたり、従うことを強制してしまったり、しませんか?

日常のなかで、小さな出来事をとおして、親子のあいだに積み重ねていくものは、単一性ではなく多様性でありたい。

 

なにげない相手の言葉に腹がたったり、傷ついたりするとき

親さんのお悩みを聞かせてもらったり、ご相談を受けていると、

こどもやパートナー、(自分の)親や学校の先生にこんなことを言われて、腹が立った、悲しい、つらい……といったお話をよくうかがいます。

 

それがあまりにも攻撃的だったり侮辱的だったり、というケースではなく、相手にとってそれほど重要ではない一言や対応に傷つく、というとき。

もちろんどんなふうに感じるかは人それぞれで、それでいいんですが、もうちょっと掘り下げて考えてみるのもいいと思います。

 

共感・同感してもらいたい大人

お話を聞いていて思うのは、親である自分の思いに共感・同感してもらいたい、という気持ちの強さです。共感・同感が得られないと、とたんに腹が立ったり、いらいらしたりしてしまう。

 

たとえば、とても些細なこと。

親がこどもに、こどもの目の前にある「そのペンとって」と頼んだとき、あるいは「玄関から新聞をとってきて」「窓を開けて」、と言っても、こどもがそれに従わなかったとき。

「あー、いまイヤ」とこどもが断ったら、たいていの親は怒ったり、小言を言ったりします。

 

こどもは決して「ペンがほしい」「新聞がほしい」「窓を開けたい」あなたのことを否定しているわけではないのに、まったくフラットにこどもの返事を受け取ろうとは、なかなかしません。

そんな場面は、ほかにもいっぱいありますよね。「今日のごはん、おいしい?」と聞いて「あんまり」「別に」と言われたら不機嫌になったり。

そんな小さい出来事が、親と子のあいだに積み重ねられていきます。

 

こどもに伝わっているのは、多様性? 単一性?

「差別はいけない」と同じくらい、「多様であるべき」と言える人がたくさんいると思います。

けれど、多様がいいと言いながら、家庭のなかでこどもに「単一」を教えてしまっている親も、たくさんいるでしょう。

 

こどものゲーム禁止をしたり、条件つけて許したり、というのもそうですよね。親の価値観ひとつだけが正解で、善で。それじゃ、多様になるわけもありません。

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こどもは親の人生まで背負わされてしまう

そんな積み重ねのなかで育ってきたこどもたちの話を聞いていて、痛感することもあります。

たとえばテストのこと。

こども自身は(このテストでは)赤点さえ取らなければいいや、と思っていたとしても、親は「70点以上取らなければいけない」「そんなこともできないなんて存在価値がない」と(実際の表現はともかく)言うのです。

するとこどもは、親の怒り、悲しみ、強迫観念、過去、複雑な心理すべてを背負わなければいけません。ほんとは、こどもは自分自身の悩みに苦労したり、自分の目標に喜んだり、自分の人生のことだけ考えればいいはずなのに。

 

親が自分の価値観をこどもに押しつけてしまうと、こどもは二重、三重の苦しみを受けてしまいます。

不登校の場合でも、そうですよね。親が悲しむから行かなくちゃ、とか。怒られるから習い事を続けなきゃ学費を出してもらっているから申し訳ない、とか。

ひとは自分の声を聞いて、自分のために生きるべきなのに(ひとりよがりに、という意味ではなくて)。

 

家庭のなかに多様を

自分と違う意見や、期待した答えに反する言葉をもらったら、ただ「ああ、違うんだな」「そういう意見もあるんだな」、と、ボールペンをとることは、いまイヤなんだな、と受け入れていく。

そうでなければ、家庭のなかに多様は生まれません。

社会の多様は、家庭の多様がつくっていくものでもあります。社会に、学校に多様を求めるためにも、まずは自分が多様を認められるひとになりたいな、と思う。

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「世界は多様に満ちている」ことを言動で示していくために親のすることは

 

おしゃべりを通して「違う」に慣れ親しんでいく

そのために、わたしたちがまずできることは、何気ないおしゃべりをたくさん、たくさんしていくこと

自分自身に関わりのないことからはじめていけば、やりやすいです。あの映画はこうだったね、ああだったね、いやいやこうだと思った……とか。

 

「違う」でいいだけの話なんです。

わたしたちは、「違う」に慣れ親しんでいかないといけない。「嫌い」や「イヤ」をフラットに言い、聞くことに慣れ親しんでいく。

共感や同感は肯定ではないし、「違う」は否定ではありません。

 

学校が、大人が、「学ぶ」を奪い、「教える」ばかりを与えてきた弊害のひとつですね。

「いうことを聞く、素直ないい子」を、わたしたちは恐れるべきです(その子自身ではなく、その成り立ち、構造を!)。
ゲームが大好きなのに「ゲームは一日一時間」などの条件に従っているこどもを見て、わたしたちは自分の行いの罪深さに気づくべきです。

 

あなたとわたしは違うひと。その違うひとどうしで、ひとつ屋根の下で暮らすんだという自覚をもつことからはじめよう。

そして、家族みんなの住む、「わたしたち」の家庭を作っていこう!

 

[box class=”yellow_box” title=”「オヤトコ学校 いい舟」” type=”simple”]よっぴーまりんが主宰するオンラインスクール「オヤトコ学校 いい舟」では、親と子がヨコの関係になるための勉強を続けています。

いい舟で配信している動画「家庭でサドベリー」の Lesson.2は、「あなたとわたしは違うひと」。

 

金子みすゞさんも、数々の絵本のいう「みんなちがってみんないい」は、「区別や差別をしないでいいところを見る」ということなのです。でも、これは、尊重ではなく道徳です。

無条件な尊重があるからこそ、家庭はこどもにとって安全で、安心な場所になっていきます。

 

 詳細はこちら
オヤトコ学校 いい舟

 

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