子どもを主役にさせたい大人たち—新田サドベリースクール『屋根の上に吹く風は』を他のサドベリースクールはどう観る?

こんにちは、AI-am(アイアム)のよっぴー、まりんです。

新田サドベリースクール(鳥取県智頭町)のドキュメンタリー映画『屋根の上に吹く風は』が公開されました。

作中の新田サドベリースクールを、「サドベリースクール・デモクラティックスクールとして」どう見るか?
わたしたちの所感と、一緒に観たサドベリースクール・デモクラティックスクールのスタッフへの質問、スタッフ同士の談話を掲載しています。

新田サドベリースクール以外のサドベリースクール・デモクラティックスクールのメンバー(生徒/子ども)たちの感想はこちらです。

もくじ

日本のサドベリースクールがはじめて映画になりました

鳥取県智頭町にある「新田サドベリースクール」の約1年を追ったドキュメンタリー映画、浅田さかえ監督『屋根の上に吹く風は』が公開されました。

『屋根の上に吹く風は』より

サドベリースクール・デモクラティックスクールは、カリキュラムやテストのない学校。
子どもたちは構成員のひとりとして学校を運営しながら、日々自分(たち)のやりたいことをして過ごし、自らの好奇心にもとづいて学び続けています。
映画では、日常の光景や、お米作り、喫茶店活動、中学受験、スタッフ選挙などを通して、新田サドベリースクールの子どもたちとスタッフの自然な姿を見ることができます。

日本のサドベリースクール・デモクラティックスクールが映画になるのは、はじめてのこと!

これまでサドベリースクール・デモクラティックスクールを知らなかった人たちに届くこと、オルタナティブ教育がより発展していくことを願う一方で、わたしたちとしては、サドベリースクール・デモクラティックスクールが気になっている人・通っている本人や保護者、および関係者にとって、とても面白い映画だと思いました。

試写で『屋根の上に吹く風は』を鑑賞した感想とともに、この映画を一緒に観た日本のサドベリースクール・デモクラティックスクールのスタッフ4名との談話、および彼らへの5つの質問を公開します。

人は誰でも主役、けれど他人を主役にさせたい人もいる

人は誰でも個性的な存在であるのと同様に、人は誰でも主役です。

それはポジティブな意味でもネガティブな意味でもありません。
自分以外はみんな他者であるように、ほかの誰かにとっては自分もほかの人たちもみんな他者であって、事実、誰でも、自分自身にとっては自分が主役です。

仮にどんなに脇役になりたいと思っていても、主役でしかあれないのです。
主役というとなんとなく輝いたイメージがありますが、自分は取り柄がない、暗くて可も不可もなくて、人生を捧げるほど好きなものがあるわけでもなくて、なにかを変えたいという情熱も信念もない、死にたいわけではないけれど生きるのが楽しくてたまらないとはいえない、生きるのが楽しくてたまらないわけではないけれども死にたいわけでもない……そんな「輝いたイメージ」には当てはまらない人も含めて、もちろん主役でしかあれません。

 

より「個性的」な存在を目指してがんばるのは各々の勝手です(それは時には”イタい”こともありますが、それは本人には関係のないことだし、決して不要な状態でもありません)。

でも、他者に向かって「個性的になれ」というのはよけいなお世話なばかりでなく、なにか勘違いしてませんか、と言いたくなるじゃないですか。それがどんなにポジティブな持ちかけであったとしてもイラッとする。
より魅力的な形で個性を露出させるための助言でも求めたのでない限り、その人は、他者を勝手に「無個性」な存在にしています。

 

また、他者をその他者自身の「主役にさせたい」人もいます
この欲求と行動が色濃くあらわれるのは大人、とくに親や教育者的立場の大人と、子どもとの関係のなかです。いわゆる干渉のたぐいというのは、ほとんどこれだと言っても過言ではありません。

最近は、それこそ個性や主体性を重視するような文句がはやっていますが、そうした教育観のなかにこそ「主役にさせたい」欲求があらわれがちなのは、ちょっと皮肉でさえあると思います。もちろん、それに振り回される子どもは、たまったものじゃありませんが。

サドベリースクール・デモクラティックスクールは「主役になれ」というメッセージを発しない

一口にオルタナティブスクールといっても、そのやり方・あり方には幅があります。

現行の一条校(学校教育法第一条で定められた学校。みんなが知っている一般的な学校)とは異なった独自の理念・方針をもつオルタナティブスクールは、独自とはいえ、一条校のやり方・あり方に対して「それは違うな」と感じることからはじまるということを(少なくとも現代では)避けられません。

そのため、ある程度の共通項は持ちつつも、具体的な日常の光景にはけっこう違いがあります。

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たとえばほんの一部分を切り出してみると、サドベリースクール・デモクラティックスクールにはカリキュラム・テスト・時間割がなく、先生もいません。
この学校でなにを学ぶか、最低限これだけは学ぶ、こんな人に育つことを目標とする、といった設定もありませんので、一見すると子どもたちは毎日ひたすら遊んでいるということになります。

シュタイナー学園きのくに子どもの村学園箕面こどもの森学園 などの場合は、独自のカリキュラムに基づいて、国語や算数といった科目を学びますが、一条校のような座学・暗記や知識重視、多人数での画一的な進行ではなく、体験学習を重視したり、それぞれのやり方ペースが守られたりしています。
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幅広い色のあるオルタナティブスクールのなかでも、わたしたちはデモクラティックスクールが好きです。
いくつかの言い方ができるけれど、その理由のひとつは、子どもに対して「主役になれ」というメッセージを発しないことだといえます。

「主役になれ」というメッセージを発しないとは、たんに「黙っている」のとは違います。

口にすることだけがメッセージではないし、口をつぐんでいてもメッセージは届く。つまり、そもそも子ども(人)はその個体において主役でしかないことを、ネガティブでもポジティブでもなくただ認識しているということです。

たとえば「あるがまま」なんて言葉も今やずいぶん胡散くさいですが、事実として認識しているというのは、「あるがまま」を目指すのではなく、たとえば猫をかぶっても嘘をついてもそれは「あるがまま」に変わりない、ということです。
まあ、猫をかぶったり嘘をついたりするのがしんどくてつらいなら、少しずつやめていければいいけれど、別にやめなくたって「あるがまま」なんですよね。

サドベリースクール・デモクラティックスクールのスタッフたちとの談話

前置きが長くなりましたが、『屋根の上に吹く風は』を観て、作中の新田サドベリースクールについてサドベリースクール・デモクラティックスクールのスタッフたち4人と、よっぴー、まりんで話した内容を、ほんの一部ですが掲載します。

参加してくれているのは、西宮サドベリースクール(兵庫県西宮市)の ぐらデモクラティックスクールまんじぇ(愛知県一宮市)の恭子さんつーじーデモクラティックスクール さいたま あみゅーず(埼玉県さいたま市)の まみちゃん です。

「大人の匙加減で子どもを変えられるっていう感覚があるんだと思う」

恭子さん私(映画の中で)“ん?”って思ったのをピックアップしてたんだけど。

>「安全に過ごせるようにするのもスタッフの仕事だから」
>「手出ししすぎない、与えすぎない」
>「けしかけないと動かないからどこまで言うか抑える」
>「がんばったねー!上手ー!」

私がピックアップしたところの気持ち悪さの共通はね、スタッフ側にこうあってほしいっていう理想が先にあるんよね。そのために匙加減はこっちが、みたいな感覚。

ぐら子どもらに「こうあってほしい」ってことやんね。

恭子さん大人の匙加減で子どもを変えられるっていう感覚がそこにあるんだと思う。

 

「これこそがサドベリースクールって言えないのが、良さでもあるし悪さでもある」

まみちゃん(サドベリースクール・デモクラティックスクールとしては)ちょっとどころか全然違うじゃん、みたいなもののほうが案外発信力があって。あみゅーずでは「違うものは発信してほしくない」って気持ちが強いんだけど、そうするとなかなか世にスクールが普及されないというか、出るのが遅くなるんだよね。だからそういうのをよしとするのか、わたしはいつも迷うんだけど、みなさんはどう思われますか?

ぐら今回は出ちゃったので、注目を浴びて、本当のサドベリースクールはこうですよ、ってやっていくようにしたらいいのかなって。たとえば世に出る前に相談されて、これ出していいですかねーとか聞かれたら全力で止めるけど(笑)、これをサドベリースクールと言ってほしくはないって、そういうことしかできないかな。

恭子さん定義を私たちが決めても、“それ以外のところは絶対に違う”っていうのは無理があると思ってるのね。デモクラティックスクールなんて民主的な学校って意味しかないし。世界ではもっとゆるゆるなところも名乗っているし、そこでどうこう言ってもしょうがないと私は思う。

ぐらこれこそがサドベリースクール、って言えないのがサドベリーの良さでもあるし、悪さでもあるよね。

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つーじー冒頭と最後に根底に流れる“がんばって困難に打ち勝ってます”“乗り越えて成長していってます”“チャレンジしてます”、みたいな感じは、映画にするにはああするしかないのかな。でも誰向け?

恭子さんガチのサドベリーで映画を作ったとしても、世の中がついてきてないからしょうがない。

ぐらだとしたらなんで映画作ったんって感じ(笑)。西宮は”なあなあ”を削ぎ落として今に至っている部分があって、たぶんこだわりで生き残れる部分がある。(間口を広くして)今の時代にキャッチーにやっていく方法もあるけど、サドベリーってこだわらないとサドべリーじゃなくなっちゃうから、一歩間違うと危ないかなって。繋がってからはガチで説明をするくらいのこだわりがないと、サドベリーじゃなくなっちゃうというか、来た(こだわりの)薄い人たちに潰されてしまう。

まみちゃん間口を広くすると、来るんだけどやめちゃうんだよね。(あみゅーずでは)データに確実に出てて、子どもが自分の意思じゃなくて親が問い合わせて入ってきて、親が言うから来てみて、まあ楽しいから入ろう……っていうと続かないんだよね。来てからわかるよって感じにして来たところで、本当にデモクラティックスクールできるかって言ったら、そういう人たちが多いと潰されちゃうって話もわかるなーって思いますね。

「ごっこ」なんだよね

よっぴーこれ、新田サドベリースクールのメンバーも観たんだと思うけど、その中で意見が割れたりしなかったのかな?って思った。あみゅーずなんて映えないって言ってたけど、スタッフのありようが成っていたら、面白くない映画になるんかっていうとそうじゃないと思うから、願わくば他のデモクラティックスクールの映画も作って〜って思う(笑)。108分じゃなくても、10分の映像だったり。

恭子さんひとつのオルタナティブスクールですっていう映画ならよかったけどねー。

よっぴー観る人には“おいおい”の部分がわからないから、誤解が広がるっていうか。方向性は未熟なサドベリースクールと、新田サドベリースクールみたいに根本的に異なっているサドベリースクールがあると思うのね。今年の春からはじまって1年目だからまだまだ経験が浅くて未熟なんです、っていうんじゃなく、根本的に別物で、それなのにサドベリースクール・デモクラティックスクールをやってはるスクールもいっぱいあってでも一般の人にはそれが本当にわからない。(今はスタッフではない部外者としては)各スクールのみんなで勉強しあって質をよくしていってほしい、っていうのが願い。

まみちゃん違う、と思うところは「ごっこ」なんだよね、私からすると。あみゅーずにはない選挙とかいろいろやってるけれども、でもデモクラティックスクールではないってなってしまう。形だけ取り入れてるっていうのかな。スタッフがいろいろやらせようとしてるからなんだけど。

よっぴー(一般的なイメージでは)子どもたちが好きなことをする学校=デモクラティックスクール・サドベリースクール、になってる。かなりなってる。自治や何やよりも、好きなことをする、が一番にきている。

ぐら突き詰めればそれになるんじゃない? 突き詰めずに終わってるのは問題やけど。

よっぴー一条校に行ってなくて、フリースクールやオルタナティブスクールには行ってない、ホームスクーリングでもない子はたくさんいるけど、家にいてるだけでうちもサドベリースクールやってるんです、っていう親がいる。サドベリースクールならゲームやるにも何するにもひとりの意思ではできなかったり、話し合わなきゃいけなかったりもするけど、“今まで学校行ってなくて不登校で引きこもりがちで……、そんな我が子がサッカーやりたいって言い出した!わーー、いいよいいよ、サッカーね!はいサッカーボール!”って感じでサッカーをしている、だからうちの子も好きなことしてるんです、って。

まみちゃん(スクールへの)問い合わせでよく、“やりたいことができる、やりたくないことはやらなくていいんでしょ”みたいなのがあるんだけど、それに続いて“自分の子に合うところ、自分の子のオーダーメイド、自分の子に合うようにしてくれるんでしょ”みたいな問い合わせも多い。

サドベリースクール・デモクラティックスクールのスタッフへ5つの質問

4人に、『屋根の上に吹く風は』をふまえた質問に答えていただきました。

サドベリースクール・デモクラティックスクールを検討されている方から、わたしたちはしばしばご相談を受けます。
そのとき共通してお話するのは、サドベリースクール・デモクラティックスクールといっても各学校で空気やカラーが異なるから、検討中はいろんなスクールを見学してみるのがいいですよ、ということ。

勘のいい方であれば、気風だけでなく、その学校が本当にサドベリースクール・デモクラティックスクールとして機能しているかどうか、見比べることで判断できる場合もあります。

 

談話も、以下の質問も、映画の見方が深まると同時に、サドベリースクール・デモクラティックスクールはチェーン店ではないというわかりやすい一例になっていると思います。

今回は西宮サドベリースクールデモクラティックスクールまんじぇデモクラティックスクール さいたま あみゅーず の3校のスタッフのみの答えではありますが、ぜひいろんな読み方をしてみてください。

1.サドベリースクール・デモクラティックスクールとして、映画の中で「これこれ、そうそう!」と思ったところと、「これは違うんじゃないか」と思ったところは?

 ぐら(西宮サドベリースクール)

《これこれ》スタッフがクビになったところ。大人の事情、大人のやりたいって気持ちだけで雇ってもらえるわけではないっていうのはサドベリースクールの本質。さとちゃん(映画に登場するスタッフの名前)は熱意もあるだろうしやりたかっただろうけど、子どもたちのニーズに合わなかったら弾かれる。
《これは違うんじゃないか》どのシーンにも大人が映っているところ。本当は大人が必要じゃない場面のほうが多くて、子どもたち同士で教え合いなどが発生するのがサドベリースクール。大人が思っているほど、大人は子どもたちに欲しがられない。本当は子どもたち同士でやっている風景のほうが何十倍も多い。

恭子さん(デモクラティックスクール まんじぇ)

《これこれ》最初に来たときはみんな楽しい!ってワクワクするけど、しばらくするとどうしようこれ、ってなってくるあの状態。暇をどうしようって。
《これは違うんじゃないか》けしかけないと動かない、みたいなことをスタッフが言っているところ。けしかけて動かすんかい!それはしません。

 つーじー(デモクラティックスクール まんじぇ)

《これこれ》
給料が安い(笑)。あと、表面的には出ていないけど、映画に大人が多かったのは子ども・生徒があんまりそれっぽいことを言わなかったんだろうと思う。(子どもは)そんな思い通りにいかんぞ、みたいなところは出ていたから、それはそうかなと思った。
《これは違うんじゃないか》スタッフの目線かなあ。なんの目線でおんねん、って。対等じゃなさすぎた。育ててあげている目線というか、それは感じた。

 まみちゃん(デモクラティックスクール さいたま あみゅーず)

《これこれ》なかった。
《これは違うんじゃないか》(いっぱいあるけど)全体的に、誰の学校かわからなかった。(デモクラティックスクール・サドベリースクールは)構成員の学校だと思うので、スタッフの学校っていうわけでも子どもの学校でもないと思う。一緒に作っているっていうのはわたしは「ごっこ」だと思った。スタッフと子どもたちで作っているというなら、それはごっこですねって言うしかないかなって。

2.子どもが退屈、暇と言っているときどう思うか? どうするか?

ぐら(西宮サドベリースクール)

これぞサドベリーじゃん、みたいな感じのことを思う。何かするわけではないけど、退屈ってすごく悪い意味のように刷り込まれていることは多いから、退屈って本当はいいことで、時間ができるから新しいことってできるんだよー、ってニュアンスのことを伝えるときもある。暇がある学校ってサドベリーが唯一だと思っていて、ほかに暇を取り入れようって思っている学校ってないと思う。だから「暇」が学校の中で大事に扱われている、言ってしまえば子どもの学びのひとつとして数えられているのってサドベリーの特色だし、サドベリーの本質だと思う。

恭子さん(デモクラティックスクール まんじぇ)

ひとりごと的な感じで言っているときは何もしないしほっとく。言ってこんよね、わざわざスタッフに。耳にしたら…相手によるかなあ。よく「いいなあ」って言って嫌がられるね(笑)。「私が暇だったらあれもこれもしたいことあるのにー!いいなあ!」みたいなことはたまに言うかな。あんまりしつこく言ってる人には、「じゃああたしがやりたいと思ってること100個くらいあげようか!」って言ったら、いい、って言われる(笑)。

つーじー(デモクラティックスクール まんじぇ)

思ってることはぐらさんに近い。かまってほしそうな感じに「暇ーー」って言ってくるときは「ああそうーー」って言うだけやけど、ひとりごと的に言っているときは、ぼそっと「暇、ええやん」みたいなこと言うかなあ。

まみちゃん(デモクラティックスクール さいたま あみゅーず)

ああそうなんだ、暇なんだねー。って言うだけだし、とくに何も思わない。

3.映画の中でスタッフは葛藤していたけれど、デモクラティックスクール・サドベリースクールのスタッフの役割をどう考えるか? スタッフとしてどんな葛藤があるか?

ぐら(西宮サドベリースクール)

葛藤はない。役割でいうと、導いてあげようとか、子どもたちに何かを与えようというのはすごくおこがましくて。(スタッフは)子どもたちとは違う引き出しをもった大人、子どもたちが必要だと思ったら使える可能性がある人。サドベリーには、子どもと対等なスタッフが必要なんだなって強く思う。

恭子さん(デモクラティックスクール まんじぇ)

自分の子育てを通じて思うのは、言われたことだけやりゃいいじゃんねって。手伝ってって言われれば手伝えばいいし、こっちがどう育てようとかいうのはおこがましい。言われたことだけすればいいじゃんって感じかな。葛藤じゃないけれど、大人と子ども、人と人としての関係性として、自分で経験しないとなーと思うことは時々ある。学校の先生をしていた時代もあったし、チェックしたいな・点検したいなと思うときはある。“相手が仲良い友達だったら同じこと言う?”っていう点検の仕方はするかな。

つーじー(デモクラティックスクール まんじぇ)

(スタッフの役割は)信頼することかなあ。この映画を見ていたら、やっぱり心配しすぎやし期待しすぎやし、信頼してないなって感じがすごくあったから。コントロールせずに対等に関わるっていうのが役割かな。葛藤は、めっちゃしてるようで、それは新田の人たちがいう葛藤なのかというと……。いろいろ考えたり、世の中との考え方とのズレとか思ったりはするけど、(映画の中の)あの葛藤と同じ葛藤ではない。

まみちゃん(デモクラティックスクール さいたま あみゅーず)

スタッフの役割は、子どものことを勝手に想像したりしないことかな。思うことがあるなら聞く、っていうのが必要。どこまで言おうかとか悩むなら、聞いたらいいんじゃないって思う。わたしは聞くので、葛藤はない。

4.生徒がサドベリースクールをやめて小、中学校に行くためのサポートを求められたときどうするか

ぐら(西宮サドベリースクール)

小中高に行くのは、サドベリースクールから違うルートを選ぶということだと思っていて。それは全然悪いことではないしもちろんあり得るので、良い悪いの話ではないんだけれども。サドベリースクールって自分が一番選びたい学校だから来るっていう前提が大事で、それが前提にあるから議決権が活かせる。一番じゃなくなったのに議決権を持ってることほど危ないことってないので、サドベリースクールが自分にとって一番の選択肢なのかどうか、入学のときにも確認はしていて。映画であったみたいに、小/中学校とサドベリースクール両方に行ってます、っていうのは西宮ではありえない。違うと思ったその瞬間にやめられるシステムをとっていて、違うって心が決まったらすぐにやめる。やめるからサポートももちろんしないというか、できないというか。サドベリー以外で勉強していけばいい、サドベリーでやることではないというのが西宮の立ち位置。

恭子さん(デモクラティックスクール まんじぇ)

求められれば求められることをするかなあ、私は。他のこととも別に変わらないかな。生徒としているかぎり。

つーじー(デモクラティックスクール まんじぇ)

もうちょっと具体的な事例になれば変わるかもしれないけど、基本的にはサポートするかな。たとえば来年度から(小/中学校に)行きたいと言っているとして、今の時点ではスクールにいて勉強したいっていうことだったら、それはサポートするかな。教えてって言われたら教えます。

まみちゃん(デモクラティックスクール さいたま あみゅーず)

どんなサポートをしてほしいのか聞くかな。サポートっていうと勉強なのって思いがちだけど別にそうではないかもしれないし、どういうところがあるのか一緒に調べてほしいとかかもしれないし、どんなサポートをしてほしいのか聞く。できることならするし、できないことならわたしはできないけどどうするって聞いて、ほかに先生をつけたいとか、それを相談したいとか言うなら、一緒に考えたりはするかな。

5.サドベリースクール・デモクラティックスクールにおいて、「対等」ってどういうこと?

ぐら(西宮サドベリースクール)

人は大人も子どもも対等なのが本来であって、それがそのまま大人と子ども、スタッフと生徒、っていう形で現れている。ただ、生きてきた年数なんかは当然違うし、だから違う役割もとれるわけで、対等である一方で大人と子ども・スタッフと生徒は違う、っていうのはある。(サドベリースクールは)子どもが自分で学ぶし、学べるような学校だから、対等であるべきですよ、というよりは対等であれる人しか続かないというか、(対等でなければ)子どもたちに弾かれる。

恭子さん(デモクラティックスクール まんじぇ)

大人同士なら言わないでしょ、っていうとわかってもらえることが多い。お節介な人はお節介なままで全然いいし、大人の友達にいろいろ口出す人が子どもには言わないってなるとそれはおかしいし。立場的にはサービス業だと思っているから、利用者は生徒じゃん。そういう意味で、スタッフはサービスする側だよねとは思う。そういう意味では対等ではないのかもしれない。関係性としては対等ではあるけれど。

つーじー(デモクラティックスクール まんじぇ)

権利があるから対等だと思っているから、本来対等であるしかないというか。それは人間が生み出した大発明であって、生きやすくするために生み出したもの、だから当然そこに乗っかっているだけ。土台にあるもの。

まみちゃん(デモクラティックスクール さいたま あみゅーず)

年齢に関係なく同じ権利をもつということ。大人はつねに意識していないと、対等でない対応をしてしまいがちで、大人であるスタッフは子どもに対して対等な関係でいるか、対等に対応できてるかどうか聞いたり、考え続ける必要がある。あみゅーずでは、スタッフは対等についていつも考える人、っていう役割がある。一回のミスもなく対等ができてなきゃスタッフとしてだめですよっていうのではなくて、対等についていつも考える人であることは必要、っていう。

 

[box class=”yellow_box” title=”子どもたちはどう見る?”]このとき一緒に映画を観ていた「デモクラティックスクール さいたま あみゅーず」のメンバーは、「とてもデモクラティックスクールとは言えず、観ていられない」と言っていました。

サドベリースクール・デモクラティックスクールのメンバーたちは、『屋根の上に吹く風は』で描かれた新田サドベリースクールをどう見たのか、感想・意見をインタビュー中です。後日記事にしますので、ぜひそちらもご覧ください。

 記事にしました! こちらでサドベリースクール・デモクラティックスクールのメンバー(生徒/子ども)たちの声を掲載しています。

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大人のもつ目標と葛藤、空虚な主体性

『屋根の上に吹く風は』を観ていて、随所から受け取るのは、子どもたちを主役にしたい、してあげたいという欲求です。

たとえば、子どもたちが屋根にのぼったり、飛びおりたりして遊んでいる中で、苦戦している子をみんなで鼓舞し、のぼれたあとは「がんばったね」「できたね」「すごいね」と子ども・スタッフ総出で賞賛をくりかえすシーン(西宮サドベリースクール、デモクラティックスクールまんじぇ、デモクラティックスクール さいたま あみゅーずのスタッフ談話の中でも言及されていた部分です)

あるいはミーティングで、昨日起こった問題を議題に持ち出したスタッフが、「昨日あったことを説明してあげれる人いる?」と子どもたちに振るシーン。それはもちろんそのスタッフ本人も知っている内容で、ひとりの子どもが説明をしたあと、そのスタッフは再びバトンをとって話をはじめていきます。

そうしたいずれも、その場面に応じてスタッフが自ら目標を立てています。

映画の中で、新田サドベリースクールのスタッフの「葛藤」が描き出されているように、それらはスタッフのありかたとしての目標と捉えることもできます。とはいえ、その目標が子どもたちを「達成させること」、「育てること」、ようするに「主役にさせること」に向いていると、サドベリースクール・デモクラティックスクールの教育という点からは外れてしまうだろうと思うのです。

サドベリースクール・デモクラティックスクールを健全に保つもの

映画にも「主体性」という言葉が出てきますし、ほかの表現を用いて同じものを指している場面もいくつかあります。

たとえば、新田サドベリースクールのスタッフのひとりの

「(…)最初は主体的だったはずだったのにやらされてる感ばっかり強くなって…我慢して受け身・受け身だと徐々に自分の人生奪われていってしまう」

という発言は、「サドベリースクールの子どもたちの一見“わがまま”にもとれるような、自分の気持ちを表現する言動」と、「(スタッフ自身が)以前勤めていた高校の生徒たちの“主体性”のなさ」を比較した語りの一部です。でもまさにこの発言どおりのことが、映画のなかでもひそかに進行しているように見えるシーンが点在しています。

作中のイベントの一つとして取り上げられているお米づくりや、喫茶店、会計など、いずれも編集の意向か、新田サドベリースクールの日常に由来するものかはわかりませんが、過程の空虚さが印象に残りました。

大小問わずある一つの決まりごとについて、「なぜこうなったのか」「なぜそうなのか」を当事者全員が理解しているというのはサドベリースクール・デモクラティックスクールの特徴のひとつで、この「過程」が、サドベリースクール・デモクラティックスクールの健全さを保っているといえます。

自由は難しい?

それが見当たらないというのは、この映画、ひいてはこの映画内の新田サドベリースクールにおける「自由」の空虚さとも関係があると思います。

サドベリースクール・デモクラティックスクールのサイトや説明会などでも「自由」という言葉はほとんど必ず用いられますし、作中のナレーションでも「サドベリーは自由を大切にしているといいます」と語られたり、メンバーの「自由って楽だけど難しい」といった発言を収めているように、もちろん新田サドベリースクールにとっても「自由」は重要なワードです。だけど、この「自由」が難しい。

難しいというのは、自由だと苦労するとか、悩みが尽きないという意味ではありません。現状、多くの大人と子どもにとっての「自由」の基礎には、「不自由」があるからです。

 

大雑把な引用なので実際に観ていただきたいんですが、映画のなかで、メンバーのひとりは「ルールとしての禁止」を「せっかくの自由な学校なのに縛られる」というふうに捉える発言をしますし、スタッフもそれに対して引っかかりをもちません(少なくとも映画上では)。

そしてスタッフは、「手出ししすぎない、与えすぎない」「けしかけないと動かないところもあるけれど、やり過ぎてもいけない」「どこまで言ってどこまで抑えるか」、そんな葛藤を見せます。それは、「不自由」に「自由」を着せていることの表れですよね。

限界と限界を付き合わせて、別の次元へ飛ぶ

大人であれ子どもであれ、ひとりで考えること、想像すること、解決することにはその一人ひとりの限界があって、それ以上なんてそうは生まれません。

だからわたしたちはさまざまな人に出会ったり、本を読んだり、映画を観たり、外へ出てみたりして、簡単に限界を迎えてしまう縦だけではなく、横方向へも目や心を膨らませていく。

家庭や学校(スクール)のように、あるひとつのサークル、共同体を(つねに)作っていくというのは、もちろんひとりの力でできるものでも、やるものでもありません
サドベリースクール・デモクラティックスクールの面白さのひとつは、構成員の幅が広いことです。そうすぐに限界はやってこないし、限界と限界を付き合わせれば、瞬間的に別の次元へ飛ぶこともある。

いつも聴いている曲でも、コンサート会場でたくさんの人たちと聴くと、たまにすごいことになりますよね。そういう面白さがあるし、それだけじゃなく、共同体にとってかけがえのない大事な部分であるはずなんです。

 

「子どもの頭はやわらかい」というのはちょっと夢みがちな言葉でもありますが、知識や経験が大人に比べて少ないぶん、先回りする知識や経験も少ないという面は、確かにあると思います。

けれどそのやわらかさを大切にしようとか、うまく引き出していこうとか、子どもはまっさらですばらしいと評価してみたり、そうした優越的な大人のしぐさがないことは、サドベリースクール・デモクラティックスクールにとって欠かせないというか、ありかたを考えれば自然なことです。

だから、『屋根の上に吹く風は』でミーティング(話し合い)が映される中で、スタッフが、自分ひとりの限界を認知することもなく、他者の想像や考えを愛することもなく、目隠しをさせる形で子どもたちに二択を選ばせたのは、傲慢な権力だと、わたしたちは思いました。

本当の名前をもつこと

『屋根の上に吹く風は』は、新田サドベリースクールの約1年、そこにある人と人の動きを収めた映画です。

「サドベリー教育」ではなく「人間ドラマ」を撮った作品だと監督が言われているように、サドベリーバレースクールはもちろん、日本のサドベリースクールを世に伝えるために撮られた作品ではありません。けれどそこに名前はある。名前には、サドベリースクールと書かれてある。

じゃあ、(まがりなりにも)その学校について経験と知識とこだわりを有する人は、映画として世に出ることを喜ぶだけではなく、そこに映し出された学校の実情について、考え、できれば言葉を持つべきだと思いましたサドベリースクール・デモクラティックスクールの教育理念と日本のスクールの現状とのズレについての記事も、同じ考えで書いています)。サドベリースクール・デモクラティックスクールではない名前を持つ学校や、身内のサークルのようなものなら全然いいけれど、オープンな学校なので。

 

この映画で描かれている新田サドベリースクールは、自然豊かな環境のもとで、教科書やカリキュラム、時間割などに基づくのではなく、子どもたちにたくさんの「生きた」経験と「主体性」の地図を与え、手出し口出しは最小限に子どもたちを見守っていく、そんなひとつのオルタナティブスクールだと感じます。

それは素晴らしいことです。今も、これまでにもこの学校を求める人たちがいて、きっとこれからも増えていく。その人たちにとって、ここは大切な場所だし、必要な場所です。そのとき、名前に大した意味はないかもしれません。でも、それが問題です。

サドベリースクール・デモクラティックスクールの教育はとてもシンプルで、同時に、それが実現されるのは本当に貴重なことです。
(未熟さではなく、方向性の違いから)実現されていない場が同じ名前をもつことが誰のためになるのか、ならないのか、どの立場からもよく考えないといけないとあらためて思います。

サドベリースクール・デモクラティックスクールを定義づけるのは難しい、ということはスタッフ4人との談話の中でも語られていましたが、それを理解した上で認識を絞っていくことはできるし、そうする必要があるとも思います。現時点で在籍しているメンバーやスタッフのためだけではなく、少なくない子どもと親、社会に開かれた場所であることをふまえて。

重苦しい話じゃないんですよ。魚屋に行くのは魚が欲しいからで、そこで鯛のポストカードとか、秋刀魚のストラップとか売られていても困る。みりん風調味料も本みりんもただの「みりん」として、料理酒も清酒もただの「酒」としてラベルを剥がして売られることになったら困る。そんなことなんです。

名前はただの名前でしかなくて、だからどうでもよくて、だからこそ絶対にないがしろにしてはいけないのです。本当の名前が、すべてに必要なんです。

 

もちろん、『屋根の上に吹く風は』は2018年から2019年にかけて撮影されたとのことなので、現在の新田サドベリースクールがどのような学校かはこの映画からはわかりませんし、どんな形であれ、変化は必ずあるものだと思います。それはこの感想をすっかり覆すものかもしれません。もしそうなら嬉しいとも思います。

本来の楽しみ方、映画の主旨とは異なりますが、この映画は一部の人たちにとってサドベリースクール・デモクラティックスクールの輪郭をはっきりさせていく、いい手がかりになると思います。
大げさな問題を見てしまいがちなわたしたちの、いまここにある細部を見る目を呼び起こしてくれますように。

上映・関連イベント情報

『屋根の上に吹く風は』より

『屋根の上に吹く風は』は、2021年10月2日より全国で順次公開予定です。

東京

愛知

大阪

京都

 

ポレポレ東中野では、公開を記念して 舞台挨拶&トークイベント も予定されています。

10月2日(土)・3日(日)は、映画にも登場している鈴木日向さん(新田サドベリースクール元メンバー)、長谷洋介さん(新田サドベリースクール現役スタッフ)、監督の浅田さかえさんによる舞台挨拶。

そのほかにも、新田サドベリースクールのメンバーたち、教育学者・多様な学び保障法を実現する会顧問の汐見稔幸さん東京サドベリースクールのメンバーたちと同スクールのファウンダー・代表理事である杉山まさるさんなど、さまざまな関係者と浅田監督のトークイベントも連日行われます(日程などの詳細はこちらをご覧ください)。

各最新情報など、『屋根の上に吹く風は』公式サイトはこちら
https://www.yane-ue.com/

 

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