こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
親子における信頼関係の構築はいかに。
親と子の信頼関係は、こうして築かれていくんだぁと、目の当たりにした話です。
もくじ
長い前置き
「親と子の信頼関係を築くためには、どうしていけばいいのか」。
LINE@ にも寄せられているこのご質問は、講演会などでもよく尋ねられてきました。
それが、いま、
一ヶ月前からねこ( https://wagahaiha.com )と暮らすようになって、このひと月はまさに、信頼関係が紡がれていく様をまざまざと見せつけられた時間でした。
親から信頼されて育ってきた子どもは、とても力強く生きていくことができます。
このことは確信していました。
けれども、じゃあ実際に、わが子とどうしたから(信頼関係を築くためにどうしていけばいいのか、その手法みたいなもの)、
吉田晃子・星山海琳の共著本 『小さな天才の育て方・育ち方 – 小・中・高に通わず大学へ行った話』で娘の海琳さんが書いている、あの強烈な信頼関係が築かれたのか、
育児中に育児本を読むこともなく、手法みたいなものを知っていたのでもなかったわたしは、よーわかっていませんでした^^;
たとえば、からだにいいから無農薬の野菜を食べるんじゃなくて、無農薬の野菜はおいしいから食べてた。結果、からだにもよかった、ということが20年経ってわかった、みたいな(笑)。
そういった「経験して知る」タイプの自分なので、
ねこと暮らしはじめた今になってやっと、どうやったら信頼関係ってやつが築かれていくのか、、、目の当たりにしている今日この頃です。
自分が子どもたちにしてきた あれやこれやの行いを、 海琳 さんがねことしてるんですね。
彼女のねことの関わりを通して、肌で知った、超新鮮な(笑)「親と子の信頼関係を築くためには、どうしていけばいいのか」、書いてみます。
前置きが長くなりました。全文も長いです。あしからず。
信頼とは何か?
「親と子の信頼関係を築くためには、どうしていけばいいのか」。
このことを考えると、そもそも論になるけれど、
そもそも信頼関係とは何か? そこからなんですよね。
でもって、じゃあ、信頼関係とは何か? となると、これまた、そもそも、、、ってなって、
信頼って何? となります。
信頼とは無条件のものです。
言葉ありきになっていないか?
信じられることが起こったときに、信じられる。そりゃそうですよね。信じられることが起こったんだから、そりゃ、信じられます。
信じられない(ような)ことが起こったときに、信じる。これが信頼です。
親と子の関係においての信頼とは、「親は/子は、無条件で信じることができる」と互いに思えていることになります。
だけど、信頼するためには何が必要か? この問いが足りていないんじゃないのかなって気がします。
無条件の愛、条件付きの愛
わが子が0歳であれば、親子ともども、相手を無条件で信じることは容易いかと思います。
子どもが2〜3歳でも、親から子へは容易いかな?
だけど3歳ぐらいになった多くの子どもは、親を、無条件で信じることは、もう容易いことではなくなっているんじゃないでしょうか。
3歳のころを思い出してみて。
そうおもいませんか?
親を無条件で信じるなんてこと、わたしはもうできなくなっていました。親の顔色をうかがえる立派な3歳に育てられてしまってましたよ。
子どもからみた信頼できる親とは?
親子の信頼を、
『 信頼は「する」ものじゃなく「ある」もの 』と言い切る海琳さんに、あえてきいてみました。
↓↓
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Q. どういう親だったら信頼できるの?
A. うそがないこと
そう言ってました。
ただ、信頼と好みは別なものだから、信頼はしとっても「きらいな人」はいる、と。
ちなみに同じ質問を息子にもしてみたのですが、息子も「うそをつけへんことかな」って言ってました。
1万円した洋服を4000円だったと言ったり、ほんとはケーキを3個食べたのに1個しか食べてないとか、、、そういったうそじゃなくてな、と。
経験
自分が自分を信じて、自分を頼って生きていない人が、どうやって、他者にそれができるの?
自分にやさしくできない人が、他者に寛容でいられないように、
自分のことを信頼できていなければ、他者を信頼することはできません。
じゃあ、どうやって自分を信頼するの?
経験だと思うのです。
条件を付けないと愛せない人は、子どもへの愛が不足しているんじゃない。
単なる経験不足 なんだと思う。
免許を持ってるだけじゃ運転はできないのとおなじように。
たとえ話
車の運転が怖くないのは、運転が怖くないって思えるようになるまで運転したからですよね?
縦列駐車がうまくなったのだって、縦列駐車がうまくなるほど縦列駐車を経験したからだよね。
大阪は日本一運転が荒い街だそうで、30年ほど前と比べると、う〜んと紳士的になったけれど、たしかに今も荒い(日本全国、走行したことがあるけど、うん、そう思う)。
車線変更はヘタクソだったら入れてくれないし(入れてくれる人もいっぱいいるけどね、笑)、
交通量の多い道路での縦列駐車なんて、初心者には地獄でしかないです。すぐ横をびゅんびゅん走りぬく車はだれも待ってくれませんから(紳士的になった今は、クラクションやドヤされたりしなくなったぶん天国だけどね、笑)。
でもね、
〜してくれない。〜してくれる。これらの受動をこえたとき、経験がはじまるじゃないですか。
肝っ玉母ちゃんの自信
そんな大阪で、縦列駐車をしたなら、もうそれだけで自信がつく。
またやってみる。自信になる。
今度は自分ひとりの時にやってみる。また自信になる。
人は、「自信」や「誇り」がないと、「自分を裁いてしまう」傾向があるんだそうです。「裁く」というのは、自分に対して「ダメ出し」をすること。確かに、ですね。
「合格基準」に達していないものは「認めない」ということです。
その結果、「あるがままの自分を受け入れる」ことができず、「そのままの自分を愛すること」ができなくなります。
この「裁き心」や「裁き癖」というものが、親の顔色をうかがえる立派な3歳に育てるんだと思うのです。
本に載ってある縦列駐車のやり方を読んだからって、あの大阪の道路で縦列駐車はできません。
能動的経験は肝っ玉を磨いてくれる!
たくさん失敗しながら、自分でできることが増えていくことは楽しい。
ドライブが楽しい、になる。
子育てが楽しい 、もまったくいっしょ(やと思った)。
学びには失敗や間違いを犯す自由が含まれている
他人に迷惑をかけてはいけません、と言われて育つと、それが当たり前だと思う大人になるように、
指示されたことを失敗しないようにすることが◎で育ってきた大人がする大多数の子育ては、子どもを下に見て、一人前の人間として接しません。
だから、ほら、子どもの失敗もまた、全部大人が背負うじゃないですか。
たんと恥をかいて、たんまり笑われた経験がないから……。
失敗しないように、ってしてやる親の愛、それは、無条件ではないのにです。
愛がないんではなくて、失敗も含めた「学ぶ」という経験が不足しているだけ。
肝っ玉が座る経験が足りてないだけ。
子どもが学校に行かなくなったら、、、こわいのもそう。
自分が経験していないことは誰だってこわいけれど、
早い話が、自分で尻を拭いてきた人は、自分を頼れます。
信頼関係の礎
自分を信頼している人。それは取り立てて「ある」ものではなくて、あまりにも自然。
そういう人のそばに居ると、安心に包まれるんですよね。
そこで、ああ、この人、安心していいんだ〜、安全なんだ〜と、頭ではなく、からだが、OKサインを出すのは、これまた「経験」。
相手がよせてくる、まなざしやふれあい、会話などのコミュニケ—ションという経験を通して。
これが、いわゆる信頼 関係 の礎なんだと思うのです。
「親と子の信頼関係を築くためには、どうしていけばいいのか」。
ツール的な手法は後編で!
⇒ 後編。 親と子の信頼関係を構築していく4つの手法!