こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
年々、小学生・中学生の不登校が増え続けています。これは、子どもの問題でも親の問題でもありません。
もっとも原因となっているのは、文部科学省の調査では「いじめを除く友人関係をめぐる問題」。ネットでググっても、です!
不登校の問題は、子どもに原因があるように書かれていたり、夫婦の不仲や価値観の相違が不登校を長引かせると書かれていたりしますが、不登校、それは、制度の問題です。
「不登校」という現象は、制度に不備がある日本特有のものです。
もくじ
「不登校」という現象
文部科学省の調査によると、小学生、中学生の不登校の原因は、「いじめを除く友人関係をめぐる問題」が断トツになっています。
参照 >>> 文部科学省/平成28年度「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」結果(速報値)について (P74〜)
さまざまなサイトや機関を見ても、不登校の問題は、子どもに原因があるように書かれていたり、夫婦の不仲や価値観の相違が不登校を長引かせると書かれていたりして、
まだまだ、当事者の方たちを必要以上に悩ませて不安にさせたり、嫌な気持ちにさせています。
でも、「不登校」は、制度の問題です。
一条校(私立も含め、◯◯小学校・◯◯中学校といった、皆が知っている従来の学校)以外の学びの場で学んでいても、一条校に通っていなければ「不登校」扱いになる現状から、
- 「一条校に通う」
- 「 オルタナティブスクール に通う」
- 「 フリースクール 等に通う」
- 「ホームエデュケーションする」
など、教育の選択が対等に認められていれば、「不登校」という現象はなくなります。
>>> 関連記事
学校が嫌で行きたくない小中高生31人の声と、多様な教育を実現させる重要性
仮に
- 「一条校に通う」は、トラッドなスタイルの服
- 「 オルタナティブスクール に通う」は、モードスタイルな服
- 「 フリースクール 等に通う」は、カジュアルな服
- 「ホームエデュケーションにする」は、ノームコアな服
だとしたら、
好みの違いなだけで、
どれも服やんけーーー! って思います。
ところが、教育界では今もなお、トラッドなスタイルの服だけが、「服」だって言うんです。
トラッドなスタイルの服以外は、「服」として認めません。
好きなファッションに優劣はない
そんなのおかしくないですか?
ファッションに優劣はなく、どんなファッションを好むかなんて個々の自由です。
けれども国はマスメディア等を通して、モードスタイルな服や、カジュアルな服、ノームコアな服を着ている人たちのことを、
服を着ていない子(=不登校している子)だよーーー!
と、声を大にして問題にします。
服を着ていない子をなくそう!(学校復帰)と。
「トラッドもモードも、カジュアルやノームコアもどれも等しくファッションだとしない僕たちの捉え方が、問題を起こしてるんだよ」とは言いません。
(教育を多様化して、オルタナティブ教育や、フリースクール、ホームエデュケーションを合法化すべきです)
服を着ていない子を助けてあげよう!って、、、
服、着てるっちゅーねん。
だれでもみんな服を着ている
裸の王様の権威力はすごくて、四隅の端まで「同じ」に強制され 、
骨抜きにされてしまったわたしたち大人 も、子どもたちに、
(「服を着なさい!」は無論)「服を着てなくても大丈夫だよ」と言ってしまいます。
このかけ声、とても危険だと思うんですよ。
服を着ていなくても大丈夫だよ(=不登校でも大丈夫だよ)だと、服を着ていないことになるからです。
トラッドの服を着ていないだけで、トラッド以外の服は着ています。
まりん さんの以前の記事、「 LGBTの戦後史、ETV特集『Love 1948-2018 ~多様な性をめぐる戦後史~』に不登校のありかたを見た話 」のなかで、
LGBTと不登校を重ね見たときに、不登校にある特有な点をふたつあげていましたが、まさに!
社会的に作り出されていくジェンダーは、「女はこういうもの」「男はこういうもの」と叫ばれつづけて、それが当たり前になっていきますが、「子ども」も同じです。
「まだ子どもだから大人が助けてあげないと何もできない」や、「まだ子どもだから何も決められない」。
逆に、「まだ子どもなのに、すごいねー」や、「子どもでもちゃんと考えてるんだ」などなど、、、
裸の王様になってしまっているわたしたちもまた、「子どもはこういうもの」を作り出してしまっています。
親の育て方や、親の幼少期の問題ではない
「ぼく/わたし、トラッドの服は着たくない」って言ったんなら、
着なかったらどうなるか… 脅したり賺したり、着たくない理由を問いただしたりするのではなく、
また、問題をすり替えられていることに気づいていない保護者に対しても、
「それはお母さん、あなたの育てかたがドーノコーノ、、、」とか、
「お母さん自身の子ども時代の育てられかたがアーダノコーダノだったから、、、」とするのでもなく、
どんな服が好き?
どんな服が着たい?
と、ファッションはトラッドだけではないことを告げませんか? って思う。
学校に行けないことが問題なのではなく、学校を選べないことが問題 なのであって、
「不登校」という現象は、制度に不備がある日本特有のものです。
学問の自由と学びの支援
アメリカやヨーロッパに住む子どもたちにも、学校が合わない人たちはいます。
けれども日本のように「不登校問題」にならないのは、モードやカジュアル、ノームコアなどのファッションも、ファッションと認められているからです。
⇓⇓ は、教育研究家の古山明男さんが発信されている「不登校は制度公害」より引用させていただいたものです。
もし、アメリカやヨーロッパで、日本の不登校問題と同様のことが起こったらどうなるだろうか。
たちまち、民間に新しい学校がたくさんできて、子どもたちを吸収していくだろう。家庭で子どもを育てる親も増えるだろう。新しい教育運動がたくさん起こるだろう。公立学校の改革運動も起こるだろう。学校に行けない子どものためには、サポート体制ができるだろう。学校や教育行政が十分な教育を提供しない、と訴訟が頻発するであろう。現実に、このような柔軟な動きがすぐに起こるから、アメリカやヨーロッパでは、問題が小さいうちに解決されていくのである。
日本では、不登校を、学校に適応できない子どもたちがいる、としか捉えられなかった。子どもたちをなんとか学校に適応させようとした。だから、不登校問題は解決不能な問題になってしまった。
多様な学びの場を作れること、選べること、つながれることを応援していく社会をつくるための観点から考えあいたいです。
不登校の支援ではなく、学びの支援を。
不登校をしている子どもたちは、トラッドなスタイルの服を着ていない/着ない/着たくないだけです。
子どもさんはどんな服を着られていますか?
どんな服が好きですか?
今日の本
変えよう! 日本の学校システム 教育に競争はいらない/古山 明男
不登校、学級崩壊、受験競争———欧米で生じないのはなぜか? 時代は、文科省権限そのものを疑うべきところに来ている。日本教育の最大の問題点は、「中央集権無責任体制」になっていることである。教育は強く統制されているが、責任者が誰であるかはわからないという不思議な構造ができている。もっとも重要なものは、教育を受ける側の権利保障と、人々が学校を作る自由である。
本書では、日本の学校システムができた経過、外国との比較を通じて、袋小路に入ったような日本教育の実情と、お役所的学校システム脱却の道を探る。
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