こんにちは、AI-am(アイアム)のよっぴー です。
学校に行きたがらない・行かなくなったこどもに対して、《学校は行くもの》と思い込んでいた親が、考えの変化によってどこかの時点からこどもに「学校には行かなくてもいいよ」と言うようになったりします。
けれども、わたし(親)がそう言っているのに、こどもは、まだ思いためらっている…、すっきりしていない…。それはどうして?
「学校には行かなくてもいいよ」は省略された言葉。そこに潜んでいる親の気持ちを、こどもはとうにわかっています。
もくじ
「学校には行かなくてもいいよ」と本当に思うようになった、そんなとき
オルタナティブ不登校(➡︎ https://ai-am.net/alternative-ftoko)ではなく、《学校(一条校*)は行くもの》と思い込んでいた親と暮らしてきていたこどもが、学校に行きたがらなくなり、行かなくなったとき。
※一条校…学校教育法第一条で定められた学校(みんなが知っている一般的な学校)
《学校は行くもの》と思い込んでいた親が、どこかの時点から(はじめは行かせようとしていたとしても、本やブログ、自分にとって信頼のおける人からのアドバイスなどによって)こどもに「学校に行かなくてもいいよ」「学校は行かなくてもいいよ」と言うようになったりします。
この「学校に/学校は行かなくてもいいよ」の気持ちに嘘はなく、その親は本当にそう思っている。本当にそう思えるようになった。そんなとき、です。
一難去ってまた一難、ではないけれど「学校には行かなくてもいい」と思えるようになると、今度は「学校には行かなくてもいいよ」とそのまんまこどもに言っちゃうんですよね。
「行きなさい」とか「行ったほうがいいよ」、「どうして行きたくないの?」とこどもに 訊いていた (下記の関連記事参照)昨日までにケリをつけることなく。
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そこでこどもが、「学校には行かなくてもいいよ」と言う親の意に沿った受動体・生活体・精神体の状態になれば、次なる問題はやってきません(親にとってなんの焦りも苛立ちもなく、怒りをおぼえないですむ状態)。
けれど、「学校に行かなくてもいいよ」と言っているのに、こどもはスッキリしていない、ハッキリしていない。そんなとき、また次の問題が起こります。
「学校には行かなくてもいいよ」とわたし(親)は言っているのに、こどもはまだ思いためらっている。どうして? と。
「学校には行かなくてもいいよ」と親が言っても、子は思いためらっているのはどうして?
親は、《学校は行くもの》と思い込んでいたんです。
こどもが学校に行かなくなるまでに、たとえば、
“今日はだるいなぁ〜、学校を休もう” と思い、親に「今日は学校、休むわ」と言う。親は「ああ、そうなん。はーい」と言って事は済む。といった環境であったり、
親に「公園に行かない?」「スーパーに行かない?」「ごはん食べに行かない?」といった日常のお誘い言葉をかけられて、自分(こども)は「行かない」と答えたときにも、
「えっ、なんで?」や「そんなこと言わずに行こうよ」、「でも帰り遅くなるよ」といった コミュニケーションをはばむ12のNG言葉 を返されない(親と子の)関係であったのなら、
親が「学校には行かなくてもいいよ」と言ったとしても、こどもが口をつぐんでしまったり、反抗したりして、会話ができなくなることはないでしょう(前述の『子どもの気持ちは、どうすれば「聞ける」んだろう? ー 「訊く」と「聞こえてくる」について』に書かれている「訊く」ではなく、「聞こえてくる」会話)。
あなた自身がこどもだったころ、出席日数に含まれない夏休みの登校日ですら、登校しませんでしたか? 行かなくてもいいと知っていても。
お母さん・お父さんに怒られるから、というブレーキ以前に、「今日はだるいなぁ〜、学校休もう」をはじめ、「ゴールデンウィークのなか日なんか行ってられますか」「お、今日はW杯じゃん!見なきゃ」「海が見たくなったなあ。今日は海を見に行こう」「狙ってたバーゲン、今日からなんだよね」などなどの理由で学校を休むなんてこと、ありえなくなかったですか?
(ほんとに病気だったり体調がよくないときではなく)たまに休んだとしても、その認識は「ズル休み」や「さぼり」ではなかったでしょうか。
たとえ雨が降ろうと槍が降ろうと、学校は行くべきところでした。
こどもさんも学校に行ってみて、自分が所属する社会(学校)のありようを肌で知っています。クラスの子たちが(ほぼ全員)学校に来ているのを知っています。
親と子がタテの関係(支配と服従)であるとき
《学校は行くもの》だと思い込まされていたんです、こどもも。
その上、こどもは親の支配下にいたんです。
親と子「わたしたち」が家族を構成する。家庭は「わたしたち」によって構成されている共同体です。
ところが親と子がタテの関係(支配と服従の関係)であったなら、こどもを下位におき分界線をひいた、独裁化社会のような家庭ができあがってしまいます(一条校もそう)。
だから、「行きなさい」だったり、「行かなくてもいいよ」といった言葉も腹から出てくるんだろうけど、これじゃ、「『わたしたち』によって構成される家族」は成り立たないんですよね。
支配と服従からなるタテの関係、その「わたしたち」の中身は、「『わたし』=親」だけで、もう片方の「『わたし』=こども」はいない(構成員ではない)ってことです(「オヤトコ学校 いい舟」のみなさんは、基礎中の大基礎Lesson.1を参照してね)。
「学校に/学校は行かなくてもいいよ」と、上位の「『わたし』=親」が言っているのに、こどもはスッキリしていない、ハッキリしない、まだ思いためらっている。
かといって、「学校に/学校は行かなくてもいいよ」と言われたこどもが、「じゃあ行かないにするね!」「やったー! ゲームしようっと🎶」と言って、雲ひとつない五月晴れのような表情でゲームをはじめたら?
朝から晩までしていたら?
今日も明日も明後日も、し続けていたら?
あくまで、「学校に行かなくてもいいよ」と言う親の意に沿った(親にとってなんの焦りも苛立ちもなく、怒りをおぼえないですむ)受動体・生活体・精神体の状態でいてほしいんですね。
そうじゃないと、自分(親)が肯定されない。受け身であってくれると安心なんですよね。能動的なんてとんでもないし、主体的になられちゃたまったもんじゃない。
自分が経験してきていない物事には、不安が浸透しているからです。
こどもは親の気持ちをとうにわかっている
こうして見ると、親の「学校に/学校は行かなくてもいいよ」の言葉には、ほんとうは学校に行ってくれると安心だけれど、そこまで嫌なら行かなくてもいいよの気持ちが潜在しています(逆パターンもありますね)。
自身の内に潜む「ほんとうは学校に行ってくれると安心だけれど、そこまで嫌なら行かなくてもいいよ」を省略したのが「行かなくてもいいよ」。
こども自身のことなのに、親が観るべきところは「こどもの内」なのに、やるべきことはその「内」を受け止めることなのに、学校に行かせるか・行かせないか。その二択に縛られてしまう。
「多様性」がない一条校がもつ教育観やシステム、やり方を経験してきてるんです。ムリもないよね。
そのことに、いかに気づけるかが大切です。
こどもは、とうにわかっています。省略していない親の気持ち ー ほんとうは学校に行ってくれると安心だけれど、そこまで嫌なら行かなくてもいいよ ー を。
だから、くるしむんです。
大切で、大好きなひとをくるしめたくなくて。
大切で、大好きなひとからくるしめられて。
ちょっと思い出してみてくれませんか? こどももあなたも穏やかにイキイキしているときを。たとえば、何気ないおしゃべりがつづくときを。
それは、「『わたしたち』によって構成される家族」のときなんだと思うんです(実際にその光景を見ていないから「思う」なんだけど)。そこには多様性があるんですよね。
こどもに対する小さな嘘や偽り、妬み、嫉みといった感情を追い払って、こどもにオープンな大人になっていこう。