こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴーです。
「学校に行かなかったら学力はどうなりますか? また、社会性は身につきますか?」という質問があった、先日のよっぴーまりんのトークライブ。
この記事では、「学校に行かなかったら学力はどうなりますか?」にこたえています。
もくじ
学校に行っていたら、社会性が身につく?
2017年4月30日(日)、山口県長門市で開催されたトークライブでいただいたご質問のなかに、「学校に行かなかったら学力はどうなりますか? また、社会性は身につきますか?」という質問がありました。
このうちの社会性については、こちらの記事 ⇒ 学校に行かなかったら社会性は身につきますか?【4月30日 山口】『子どもを100%信じる子育て法』トークライブレポート で書きました。
で、書いたんだけど、もう少しつづきがあって……。
学校のいう社会性は「自分の想いとかは関係なく、やりなさいと言ったらやる。やめなさいと言ったらやめる。YESマンになれるかどうかということです」に対し、「その社会性であれば、わたしは身についていません」と答えたあと、海琳さんは尋ねます。
「(学校がいう)その社会性は、学校に行っていれば身につくというものでもないのでは?」。
家庭のなかにまで「学校」が浸透して、その社会性をしつけだとおもって押しつけているおうちであれば(たとえば ゲームを禁止したり、寝る時間も親が決めたり )、学校に行っていなくても支配と服従関係は身につく だろうし、
家庭は横つながりの関係だっていう共同体(家族)であれば、学校に行っていても、その社会性は身についていない子もいる のではないでしょうか。
それは、学力においても同じことが言えるのではないでしょうか?
「学校に行かなかったら学力はどうなりますか?」
「学校に行かなかったら学力はどうなりますか?」に対して、海琳さんは以下のように答えていました。
「『学力』というものが、学校で習う科目勉強の出来・不出来を指すのであれば、その学力は、一切持っていませんでした。
なにせわたしは17歳の夏まで、(学校で習う科目)勉強をしたことがなくて、九九はおろか、足し算もほとんどできませんでした。
でも大学に行こうと決めて勉強しだしたとき、(小中高) 12年で習う8科目が2ヶ月半でできた 。
学校は、(17歳であれば)3日でできるような勉強を、6年かけさせているだけです。6年もかけるために、早い時期から教えようとしているだけです。
学校に行かなくても、学力はあります。」
>> 関連記事
勉強は遊び
海琳さんは言います。勉強は遊びだと。
わたしはこれまで、一度も勉強をさせられたことがなかった。だから、勉強を嫌いになったこともありませんでした。
小中高の12年間の勉強を、一気にぎゅっと詰めこんで圧縮して、ここから6ヶ月で大学に行くんだ、とおもうと、それはそのときのわたしにとって、とてつもなく楽しい、おもしろい、絶好の遊びだったのです。
>> 関連記事
不登校でもいいけど、勉強はしておかないと将来困る?
不登校でもいいけど勉強はしておかないと将来困る、という意見があります。
でもたいていの場合、そこにあるのは、憶測で書かれただけの実際には困った経験をお持ちじゃない方や、なんなら不登校でもなかった方、または困るだろうという心配から勉強をした人たちの意見です。
ちなみにわたしの周りには、海琳さんや、 息子 をはじめ、不登校で勉強もしてこなかったけど、大人になった今、困っていない人 ならいます。
勉強はしておきたい方や勉強していないけど高校に行きたい場合など情報一覧
□ 不登校にもおすすめ!小中高生向けの人気インターネット学習塾6選
□ 中学不登校でも高校進学できる全日制・定時制・通信制|公立・私立高校一覧
□ 通信制高校の資料一括請求ができる「ズバット通信制高校比較」を利用した感想
□ N高等学校、鹿島学園高等学校、ヒューマンキャンパス高等学校、さくら国際高等学校東京校、NHK学園高等学校、飛鳥未来きずな高等学校、飛鳥未来高等学校、第一学院高等学校の概要
□ 不登校で出席日数が欲しい方必見! 自宅に居て出席扱いになる方法と出席日数のもらい方
□ 不登校中学生、不登校小学生の通知票(表)の評定のつき方、一挙公開
□ 不登校で卒業式は出たくない!小学校・中学校不登校でも卒業できます
学力とはなにか?
そもそも、学力とはなにか。
わたしは 学力とは、字のごとく、「学ぶ力」と考えています。
学ぶ力はいのちを宿ったときから最期まで、だれもがもっているもの。
あいかわらず学力低下が叫ばれていますが、大人の側の「与えよう」、「身につけさせよう」とするものと、子どもが今「得たいもの」、「求めているもの」とにズレがあるだけです。
学力なんてものは計れるものではありません。個性や個人差を無視した、1年生の一学期には◯◯を、2年生の二学期では△△、と要求されている「学習指導要領」に縛られていませんか?
人生では、必要な時期に、必要な人としかつながらないように、人は自分にとって必要な学びとしかつながりません。
だれもが「学生」なのに、どうして小中高の12年間だけは「生徒」呼ばわりするんでしょうね。
子どもが感じることはいつも正しい
よっぴーまりんの共著『 小さな天才の育て方・育ち方-小・中・高に通わず大学へ行った話 』で、海琳さんはこんなことを書いていました。
[amazonjs asin=”4863672756″ locale=”JP” title=”小さな天才の育て方・育ち方-小・中・高に通わず大学へ行った話”]
学校の勉強にはどんな意味がある?
小学校に通いだした子どもが、「なんで勉強しないといけないの?」と親に尋ねることは、そう珍しくありません。そのたび、親は子どもの疑問を受け流すような、芽を摘みとるような答えしかくれないことも、珍しくありません。「そんなことは考えなくてもいい」とか、「大きくなったらわかる」とか。
でも答えが出せないのはしょうがないことだ、ともおもう。きっと、その親自身もまた、かつて自分が子どもだったときにふくらんだ疑問や不思議に、答えをもらえなかったのかもしれない、そうおもうのです。
学校で学ぶこと、とくに勉強というのは、すぐにはその価値がわからなくても、将来の自分のためになるものだといわれます。でも、本人が価値を見出せない学びに、どんな価値があるんでしょう。
勉強っていうのは、そのとき自分自身が求めたからするもので、だからこそ自分自身のためになるし、豊かさや、学ぶことの美しさみたいなものが輝く。子どもはそれをはっきり感じとっているから、「どうして勉強しないといけないのか」なんて疑問が生まれてきます。子どもが感じることに間違いはないのです、きっといつでも。
考えつづけること、感じつづけること
学校で、すべての子どもたちがまったくおなじタイミングでおなじ量の、おなじ勉強をさせられるのは、学校が子どもたちを画一的に育成したいからにすぎません。工場で生産される製品みたいにして、カリキュラムから、生活リズムや、食事までも管理して、たった一つの形に揃えようとします。
それは子ども自身のためなんかではなくて、一人ひとりのすばらしい人生のためなんかではなくて、この社会を(国と企業にとって)理想的に動かしていくための、その歯車の一つをつくっている。そして、恐ろしいのは、その恐ろしさや危なさを感じなくなる、ということです。
「考えること」ができなくなったら、人は自分よりも大きな存在(だといわれるもの)に従わずにはいられなくなるかもしれません。いろんななにかを「しかたがないもの」だとおもって、そういうものだ、と思考を止めてしまう。学校はこうあって、親は、社会は、世の中はこうある。自分にとって正しいか正しくないか、自然か不自然かではなくて、考えてもしかたがない、と。
でも、どんなに摘みとられてしまったとしても、考えることや、感じることは、人の内からなくなってしまうものじゃなくて、きっとそれがあるから、人は人として存在していられるんだとおもうのです。それってすごいことで、わくわくしませんか。
わたしはすごくわくわくしてきて、なんとなく強い気持ちになれます。誰もが、楽しく、ほんとうに豊かに、生きられる世の中がいつか来るようにおもえます。